このページを書くことにどんな意味があるのだろうと思うことがある。
インターネットで個人と大手マスコミとの垣根が取り払われたなどというのはたわごとで、ホームページを売り込むには宣伝力も組織力も必要だ。大手のサイトに比べれば、このページのごときは同人誌以下、鍵のかかっていない日記帳のようなものでしかない。
そんなとき岡田斗司夫が、おたくはゲームそのものを楽しんでいるのではなく、それをネタにパソ通することを楽しむのだと言うのを聞くと、わたしは自分もその仲間になってしまうのだとおもって暗澹たる気持ちになる。もちろん岡田はこれをおおいに推奨しているのだが。
岡田斗司夫の議論が強力であるのは、彼自身が、自分の言っていることをあまり熱心に信じてはおらず、あくまで知的ゲームとして議論を楽しむことに徹していることによる。
例えば、岡田は特に非オタクとの議論において、戦術として以下のような論法をもちいる。
つまり、現代には客観的に意味のある価値観はもはや存在しないので、現実との関わりにおいて物の価値を論じても無意味であり、内輪で作られたルールのみが、物の価値を判断する基準になりうるというものだ。これは非常に強力な論法だ。客観的に正しいということは存在しないと宣言してしまえば、少なくとも自分が論争で負けることは絶対にない。議論にかぎらずあらゆる戦いにおいては、何も信じない者、何も守るべき物を持たないものが常に勝利するのだ。岡田斗司夫もその例に漏れず、勝利者となるだろう。
しかし私は、この岡田斗司夫の能天気な戦術には、かなりの不安を覚える。
拙論
「光栄ゲーム論」を参照してもらえると参考になるかもしれないが、おたく文化は現実から自由であるどころか、現実やメジャーな文化を意識しまくり、反発したり羨ましがったりして成り立っているものなのだ。更にその背後には、嫉妬や虚栄心や、おたく特有の愛情のあり方など、古くて人間的な問題が渦巻いている。その辺の問題をほうっておいていいんだろうか。岡田斗司夫自身、このことは気づいている節も見られるんだが、かれは戦術的な意図からか、それをはっきりとは口に出そうとはしない。
このページの存在理由の一つは、そういった問題をほじくりだすことだが、それは岡田斗司夫的な「知的ゲーム」とは一線を画すものにしたいと考えている。人はなぜゲームを愛してしまったのか、その理由を言葉にして、ネットワークの片隅に書き記しておくこと。それはいつか、同じような気持ちを持ってしまった人が、自分のことを知るのに参考になるかもしれない。そういう気持ちで書いている。
岡田は「オタク学入門」でオタクの鑑賞能力を粋の目、匠の目、通の目(だっけか?)を持つものとして定義した。これをおおざっぱに私流に要約すれば、「粋の目」は作品と現代文化との位置関係を見抜く目、「匠」は作品の内部構造を、「通」は作品と、作品を取り巻く人間関係、業界事情などの物理的条件の関係をそれぞれ感じる能力をさすらしい。
しかし、この3つは伝統的な作品鑑賞にも含まれる能力であって、おたく特有のものではない。
「真実は細部に宿る」という考えになら賛成だが、それはなにもおたくが最初に発見したことではない。むしろおたく的鑑賞を特徴づけるものは、伝統的鑑賞が要求してきた「第四の目」を拒んだ点ににある。それはすなわち自分自身と作品との位置関係を見る目であろうと思われるのだ。