私の手元に「信長の野望 覇王伝辞典」がある。(古くてすまん、しかし今回の場合問題ないでしょう、現在のものも似たようなもんだし)光栄のこの種の本は、濃い内輪ネタが楽しいものだが、複数のライターによってかかれた文章のなかには、こんなものがあった。
ちょうりゃく*調略
(中略)…
A卑怯卑劣なる手段と呼ぶ徒もいる。ゲームにおいても人生においても上級プレイヤーのキミは、これをケツの青いクソ真面目優等生の戯と聞き流し、ガンガン扇動暗殺流言飛語と、連中の言うダーティなテを使いまくり、逆上させてやろう。
B「生き馬の目を抜く戦国では常套手段さ」としった様なクチを叩き、計略仕掛けまくりの嫌がらせをしてくる、なめたガキもいる。指をポキポキならせて、すごんでやろう。「ぼっちゃん、遊びが過ぎたようだね」(P298,3段目)
ないせいえんせいしょうり*内政遠征勝利
@光栄ゲームの構造。もしくはテーマ、イデオロギー。(中略)暴君の場合はたとえ同じ手順を踏んでも、搾取−侵略−掠奪となる。A暗黒街では、地回り−出入り−縄張り拡大。政治家は遊説−選挙−当選、
スポーツでは練習−試合−勝利、恋愛は出会い−デート−?(引用者注:わざとらしい?だなあ)、生命は行為−妊娠−出産、コミックでは友情−団結−勝利。もちろん、これらは表向き?のフレーズであって、裏のフレーズもある。思い付かないキミは授業をさぼって町に出よう。(同書P325,3-4段目)
これはまた自己顕示欲むき出しの文体の持ち主ですなあ。自分の世間知を自慢したいばっかりに、世間知らずなやつを、わざわざ(何の脈絡もないのに)探してきてとっつかまえてやろうというような意気込みがクレイジーだ。何かトラウマめいたものが感じられる。
まあこれは極端な例としても、全体的にこの本は「人生ってこんなもんさ」式のアフォリズムへの欲求で満ち満ちているのだ。
これをみて連想するのは、やはり歴史教養主義のおやじだろう。
あなたがサラリーマンなら、経験したこともあるかもしれない、あなたの上司がやってきて、「まったくおまえは人間というものを解っちゃいない、これでも読んで勉強しろ」といって差し出された本のタイトルが、
「戦国武将に学ぶ、出世する男の人間学」…
(歴史から学べるんなら、もっと身近なところですでに学べそうだが)
また、こんなこともあった。私の知人の、大学で歴史系のサークルをやっていた男が、最近のサークル新入生が光栄ゲームマニアが多いことを嘆いていた。武将の某の能力値があがったの下がったのという話に興じながら、世界を語ったつもりになっているのが彼には気に入らなかったらしい。
歴史と私たちの関係は、微妙なのだ。それは現実に起こったこととされているが、私たちが直接触ることができないという点では、むしろフィクションに近い。
わたしは光栄のゲームは他のゲームとは、本質的に異質であると以前から感じていた。といって、教育ソフトともまったく違う。
それは現実に起こったことをテーマにしながら、ゲームとしては普通のファンタジーRPGなどと同様に、内的に完結したフィクション宇宙を持っているという、現実に対する中途半端な距離感が原因なのだ。
光栄の歴史ものは、ゲームとしては常に安定したクオリティーを保つ、きわめて良心的なものだ。しかし光栄ゲームには、上記のような性質により、現実についての知識を自慢したいという、教養主義的な欲望を刺激する部分があり、その安定した人気の一部は、そういう点を求めるユーザーによって支えられているのだ。世間には現実=意味のあるもの、フィクション=無意味な空絵事、という短絡的な思考があるため、光栄ゲームの面白さの秘密が、その現実性にあるのではなく、フィクション性あるということを認め損ねてしまうのだ。
しかし、歴史教養主義こそ、二流のフィクションに過ぎないのだが…。
ゲーマーは案外と、現実に飢えている存在なのかもしれない。光栄の歴史ゲームは、そんなゲーマーの心の隙間を癒すようにして、メジャーの地位を保ちつづけるのだろうか。