本来、恋愛というのは、中流階級にだけ許された特権的なセックスのあり方であり、一般人の間には、独立した心を持った男と女が愛し合うというような発想はなかったといわれる。日本では、高度経済成長と情報化社会が、恋愛に必要な経済的余裕を与え、またかっこいい恋愛儀礼のこなし方を伝達することで、一般人にも恋愛ごっこが可能になったのだった。
そんなシステムが完成したのが80年代。だが、そんな世の中の流れに適応できなかった連中のイライラがつのっていったのもまさにこの時代からであった。「ラブ・エスカレーター」には、そんな私たちの時代の一面を切り取るかのような側面もある。
女にモテない、さえない青春を描き、読者の共感を誘うものは、コミックなどにもしばしばあるが、「ラブ・エスカレーター」が個性的なのは、「女にもてない」という(しょーもない)事実から、一部妄想も交えて話を転がし、ひとつの階級意識さえ浮かび上がらせるところまで行く、思想的煮つまり加減(笑)だろう。
洗練されて遊びなれた大学生たちや、スキー場のインストラクターに激しい嫉妬、敵意を抱く主人公らの描写は、このゲームのもっとも面白い部分の一つだ。「女の子のほうは、なにも子供っぽい同級生を相手にしなければならない理由がない」という事は、男子学生ならだれでも思い知ったことがある現実だ。ゲームでは、主人公らがムキになって対抗心をあらわにし、その結果かえって煙たがられていく様子が見事に表現し尽くされている。
世の中には、努力では超えられないもの、努力すればするほど遠ざかるものが確かに存在する。階級思想は共産主義者の専売特許ではない。いつの時代でも、「努力では超えられないもの」を見出したとき、だれもが階級を発見する。それが事実であるか、ただの思いこみであるかは、ここではとりあえず問題ではない。それを感じた本人にとっては、そこには語るべき物語があるのだ。
もし、人間的な魅力、人から愛される能力が、勝ち負けとは無関係に身につくとするなら、それは大変心の休まる考えではある。だが、実際には、優しさやセンスのよさは、「勝者のゆとり」がなければ身につけられないケースも多い。「ラブ・エスカレーター」の主人公の苛立ちは、自分は、社会的な成功、勝利のみならず、それに付随する精神的な美しさ、人間としての魅力もあらかじめ奪われていると知らされることへの苛立ちなのである。ここにかれは、人間的魅力における「階級」を見出していく。
ケーススタディ:日本では、西洋人のライフスタイルは優れてかっこいいものとされ、日本社会の中核を担う人々、いわゆる「オヤジ」のかっこわるさとよく対比される。だが、その背後にあるものは、世間で言われている以上に深刻だ。西洋の中流階級が人間的魅力を損なうことなく資本主義を発展させることができたのは、広大な植民地から収奪した富を利用することができたからだ。それに対し、文明開化以降の日本の「オヤジ」は、それと同じものを、人間的ゆとりをあまり省みず労働に打ち込むことよって作り出してきたのだ。
しかし、本当に残酷なのはここからだ。
つまり、魅力的な人格は、たとえその魅力が卑劣な手段をもって手に入れたものであっても、やはり魅力的な人格であり、一緒にいたいと思わせる。一方、いやなやつは、それがどれほど、しかたがない事情でそうなったのであっても、一緒にいれば不快であることに変わりがない。
かくして、富めるものはますます富み、貧しきものはますます貧しく。この法則は、愛情についてもかなりの程度当てはまる。
「ラブ・エスカレーター」は、このような残酷な法則を、かなりの(作為的な)頻度で主人公たちに突きつける。主人公らは、女たちの愛を得るために、これらに立ち向かわなければならない。
さて、ヒロイン理恵は、一見、このような愛の弱肉強食の世界に対するアンチテーゼのようにも見える。彼女は、挫折したサッカー少年であった主人公を、挫折ゆえに「勝者のゆとり」への道を閉ざされた主人公を、あえて愛したのだ。そう考えることは間違いではないとおもう。ただ、理恵には理恵の打算もあるかもしれない。つまり、こんな主人公だからこそ、彼女はこの男を独占し、強い関係を構築することができる、と。彼女は無意識のうちに安全確実なほうを選ぶ人なんだ。
理恵は、どこか愛情を失うのを恐れる気持ちの強い女のように見える。彼女はかなり意識的に明るく努めているタイプだ、「ドッギャァーン!できたぁ」。
容姿に優れていない女の子が、ごく小さいうちから周囲の反応に気を配り、雰囲気をよくすることに神経を使っている様子を見ることがある。そうしなければ自分が生きていけない現実を、子供ながらに察知しているのだ。理恵は(エロゲーという制約上?)容姿が悪いということにこそなっていないが、ギャルゲーのヒロインとしては派手さを欠く外見になっている。彼女はきっと、人生の日向をずっと歩いてきたような、ギャルゲのラスボスでは、ない。
だが、愛情を失うことを恐れる理恵は、実は主人公と似ているのではないか?自分の限界を見せ付けられるのを恐れて、先手を打って勝負を降りた主人公に。しかし、だからこそ、理恵は主人公を選んだのだ。逃げることを、反撃のチャンス作りに変えていくこと。そのパートナーとして彼はふさわしい。(誠実さと計算高さはしばしば近い。賢くなければ、約束を守ることはできないから。理恵の愛情もまたそういうもの)
理恵のようなタイプの女の愛情を得た幸運な男は、その愛情を無償かつ無条件なものと思いこみがちで、その思いこみのために、いつか彼女の愛情を失うものらしい。しかし実際には、理恵の愛情は非常に「理由のある」愛情と思えるのだ。
ラブエスカレーターは、一方でこのような、パワーゲームでない恋愛を描くが、やはりゲームのメインストーリーは、「勝者だけが、人間として魅力的になれる」という原則を、あくまでも主人公に徹底させる。すなわち、理恵を得るためには、親友を裏切り、勝利を収めねばならないのだ。
このことは、筋書きとしては単に主人公の優柔不断が引き起こした特殊な状況でしかないし、そのように解釈しても十分に楽しめる。
が、どうも私には、この脇谷との友情の終局には、「ライバルを蹴落とさないで、愛が得られるとでも思っているのか」という普遍的メッセージが込められているようにも読めると思うのだ。あたかも、女にほれる以上、それは避けられないことだったとでも言いたげである。
たとえば、主人公のライバル的なエリート大学生、森は、終盤において、主人公に対して「善悪ではなく、自らが本当に欲するもののためにいきろ」という意味のことを言う。単なる実存主義的お説教は、成長物語においては珍しいものではないが、「ラブ・エスカレーター」では、これは、やはり「力によって魅力的な人間になるか、力を拒否して醜い人間になるか」という選択を迫るというニュアンスがある。まあここはマゾヒスティックな気分を楽しむ(楽しむなよ)場面ではあるんですけど。
恋愛弱者としてのルサンチマンを克服するためには、自ら勝者となり、ときには、かつて自分がされたように、敗者を蹴落とすしかないのだと。それが森のお説教の秘められた意味であり、主人公は、心の痛みを伴いつつも、この世の中の残忍な階級制度を受け入れたのだ。この場面はいわば、死期の迫る森から「勝者」の位を譲渡される儀式として描かれている。