前回はギャルゲーの悪口めいたことになったが、今回は私なりにギャルゲ
ー擁護の文章を書いてみよう。第一話と第二話は、表裏一体のものとして
読まれたい。
いきなり大人げないことを言うが、世間でギャルゲープレイヤーは現実の
恋愛ができない人たちだといわれてること、本当なのかどうか。理論的に
は、現実の女も、ヴァーチャルなソレもOKな野郎も存在可能だが…
恋愛シミュレーションゲームを擁護し、そのよさをわかってもらおうとす
る人たちの論法として、こういうのがある。つまり、恋愛ゲームはいわゆ
るエロゲーとは違うんだ、純粋に、愛と感動をうたったゲームなんだと。
その気持ちは、すごくわかる。だけれど、同時にすごく無防備なこと言う
なあとも思う。普通の人たちに向かって上記のように言った場合、私たち
の世間では愛はすばらしいもので、人は愛したり愛されたりすべきものだ
というタテマエがあるので、表だって反対されることはないだろう。
だが内心では、そうではない。
「これは、エロではない、恋愛についてのゲームなんです。」
(じゃあ、なおさらオタクじゃないか!)
というのが「普通の人」の本心の反応であって、これではぜんぜんギャル
ゲー擁護になってないのだった。もしこういう、良くも悪くも純粋なタイ
プが、ギャルゲープレイヤーの主流なら、最初の質問の答えはイエスにな
るだろう。
出口無き恋愛競争
もし、付き合っている相手がいなかったとしたら、私たちのライフスタイ
ルがどうなってしまうか、考えてみるとよい。はやりの素敵な遊び場には
、一人で、あるいは男同士などでいけるような場所はちょっと無いことに
気づくだろう。もう、ゲーセンで一人もくもくとゲームするか、こんなペ
ージをみにくるかしかないという。ようするに、あまりすることがなくな
るというか、行動パターンはかなりかぎられて来る。
つまり私たちの消費生活は、基本的に男女対であることを前提にしている
。だから私たちの社会では、相手がいないということは、さびしいとか、
セックスできないとか言う生易しいことではなく、この社会から落伍して
しまったということを意味している。だから、私たちは、どんな手段を講
じてでも、相手をゲットしなければならないはめになる。これは戦いなの
だ。
この戦いには、一般には女の子のほうがよく順応し、楽しんでいる傾向が
ある。彼女たちは戦いに敗れたらどうなってしまうのか男よりよく知って
いる。いっしょに遊びにいく男がいない、ひまと退屈。世の中にこれほど
恐ろしいことはない。退屈になると、人はどうでもいいことをいろいろと
考えるようになる。そして恋愛競争から落伍した自分の孤独と運命のこと
も、頭に浮かんできてしまう。そういうことを考えるということは、平均
的女の子にとっては、この上も無い苦痛なのだ。男以上に、周りから嫌わ
れると生きていくのが難しくなる女の人生であれば、そういう愛想の無い
、暗い考えに落ち込むことの恐ろしさは、よく実感できるものらしい。そ
ういうひどい状況から逃れられるなら、好きでもなく、セックスもうまく
ない男と寝ることぐらい、なんでも無いことではないか? というか、人
の心はうまくできており、恋愛競争から脱落することへの恐怖と焦りも、
いつしか私たちはそれが愛への欲求だと信じるようになる、いや、そう信
じる限り、それが愛なのだ。皮肉じゃなくて、ホントに。
だから、「純粋な恋愛」なんかを求めている、さっきのギャルゲー擁護者
なんかは、普通の女の子から見れば、「うざい」だけということになる。
彼女たちは、理解してほしいんじゃない、退屈させないようにしてほしい
のだから、君が女の気持ちを解ろうと努力すればするほど、そういうダサ
い努力が嫌われることにもなろう。女の子たちが、金のある男を求めるの
も、彼女たちが特に欲が
深いからというわけではない。情報化社会においては、金が無ければ、遊
びのネタを「買う」事もできないことを彼女たちはよく知っているのだ。
いっぽう、健全な男の子達は、そんな平均的な女の子の性質に気づいたそ
の日から、女の子たちを退屈させないためのテクニックの習得にその青春
のかなりの部分を費やすことになる。ナンパテク、それは女の子を退屈さ
せず、「やさしい思考停止」に持っていく(←あくまで善意でもって
)ための遊びの知識、会話の機知の膨大な集積に他ならない。そんなふ
うに恋愛競争を生き残ってきた男たちから見れば、ギャルゲープレイヤー
は、はじめからこの戦いから降りている臆病ものと見える。ギャルゲーと
そのプレイヤーが軽蔑されるのは、ギャルゲーおたくが恋愛競争の敗者で
あるからなのだ。正義という言葉が、しばしば弱肉強食の現実からの逃避に堕落する
ように、私たちの世界では、ピュアな恋愛というのは、テクニックと押
しの強さの戦いである恋愛競争から逃避し、女に勝手な理想を押し付ける
ことに過ぎないのだ。
むろん、もうちょっとユニークな男と女の関係もあるところにはある。だ
かたいていそれらは、まずは恋愛競争において好成績を収めたものにボー
ナスとして与えられるもので、トゥルーラブを夢見て、ハナから競争を降
りたものにとって、この世に恋愛は存在しないのだ。
まあ、そういうわけで、さっきのような論法では、ギャルゲーを擁護する
ことは出来ないのだった。
「ピアキャロットへようこそ2」にみる、シナリオと絵の齟齬
美少女ゲームメーカーF&Cには、稲村さんというシナリオライターがお
られる。「ギャルゲー」なんて言うカテゴリが成立する以前から、アダル
トゲーム、ナンパゲームを作りつづけてきた氏は、この業界では珍しく、
非ギャルゲー的な、つまり恋愛競争的な恋愛を表現できるクリエイターだ
。そのへん、本当は私の個人的な嗜好とは合わない部分もあるんだけれど
も。「ピアキャロットへようこそ2」も稲村氏の仕事で、彼らしい部分を
多く見つけることができる。
たとえば、ゲームの中で、主人公のパラメータに「やさしさ」っていうの
がある。やさしさって一体なんだ?(青臭い問い)。恋愛競争のルールで
は、先に延べたように、女の子が「頭を使う」必要が無いように、マメに
かまってあげることが男の「やさしさ」だ。このゲームでイベント的に「
やさしさ」が上昇するケースを観察すると、やっぱり「やさしさ」はそう
いう定義になっているんではないかと思われる。じゃあ、それとは違う恋
愛上の「やさしさ」の定義なんてあるのか? 現実世界では一般的ではな
いが、ギャルゲー界には散見される。たとえば、あの「同級生」シリーズ
では、やさしさは、行為の問題よりも、相手の気持ちを理解するという精
神的な面で捉える傾向がある。
また、稲村氏の書く男主人公は、いつも醒めているのが特徴である。女と
いっしょにいるときも、冷静に「この子は○○な性格なんだな」とか、い
つもそんな内省セリフを吐く。(
KAが妙にほめている「きゃんばにエクス
トラ」の主人公は、これと正反対。女の子と一緒にいるということ自体が
楽しくて仕方なくて、いつも舞い上がっている)こういうのはナンパ師の
必須条件だ。この手の人種は基本的に女が嫌いだ。女の体さえ、あまり好
きじゃない場合も多い。ただ女をものにしたときの優越感が好きなわけだ
が、いつしかそんな優越感を「ああ、これが、世間で愛といっているやつ
だな」と思うようになる。それが間違っているかどうかは誰にも解らない
。(くどいようだが、それが愛だと信じている限りにおいては、それが愛
なのである。そんな風にして、今日も私たちの世界の大部分の男と女は幸
福で、うまくいっている。[
←ごめん、ちょっとうそ。ほんとはみんな苦
しいのか?この理不尽な戦いが…だが、だれかが一度戦いをスタートさせ
たら、君が自分だけそれを逃れるのは難しい])。
では、このゲームは、非ギャルゲー的なゲームなのか? 否。なぜか。そ
れは、原画/グラフィック担当者達の圧倒的な技量と、その背後に隠され
たギャルゲー思想のためだ。じつはこのゲームのシナリオと絵とは、微妙
に反発しあっている。
ギャルゲーの絵は、「現実には存在しないようなかわいい子しか出てこな
い」と非難される。しかし、男は「かわいい」という言葉にそれぞれ勝手
な意味を込めるものだ。ショートカットがかわいいとか、制服がかわいい
とか、そう言われると、そんなもんだと思い込む。一方、よくおっさんな
んかが、口紅が少々赤くなっただけで、「化粧が濃くなった」とか訳わか
らんこと言う。普通の男の美意識なんて、その程度に貧弱だ。だから二流
のギャルゲーでは、世間でかわいいといわれている小道具をならべておく
だけで、結構通用してしまったりする。
しかし、このゲームの絵は違う。絵にはそれぞれ様式があって、そこに書
かれるものはそれにしたがってデフォルメされる。このゲームの女の子が
かわいいのは、絵の様式がそれを要求したからだ。そこには、並みの男の
類型的なイメージなんか、入り込む余地が無い。
「ピアキャロ2」のグラフィックには、一枚一枚、なにか鬼気迫るものさ
え感じられる。髪の毛一本一本を愛でるように書き、女の子の肌が傷つく
ことを怖がるように、そこにそっと光線の光と陰を乗せる。そうして、
どんなに女の子の体に触れても、心には触れられないというあのもどかしささえも
再現してしまう。わたしはここ
には、宗教美術に通じるような、何かがあるんではないかという妄想につ
かれている。
宗教画かいたり、仏像彫ったりした人たちというのは、本当に美しいもの
を作れば、そこに神や仏が宿ると信じて作っていたらしい。だから、イコ
ンや仏像はただのモノじゃなく、拝めば御利益があるとされるわけだ。そ
れを信じるかはともかく、もし「これはマジで神の力が宿っているのかも
」と思わせるぐらいの、すごいものを作れば、それは間接的に神の存在を
、言い換えれば、この世に善や希望が存在するということを証明すること
になるわけだ。だから昔の人は必死こいて宗教美術を作った。たとえ神仏
を信じなくとも、彼らのことを、「この世にありもしないものを書いて喜
んでいた」と、笑うことはできない。
このゲームの絵師達は、あたかも本当にいかす女の絵を描ければ、そこに
最高の女の魂が宿ると信じているかのように、描く。僕たちは(←あっ、
つい一人称に…)本当は願っている、恋愛競争に汲々とする男達に、「そ
んなバカなことやってないで、私と一緒にいこう!」そう言ってのける女
に遭うことを。そんなたった一人のたった一言で、僕らは恋愛競争の死闘
から開放される、その一言がこの世界に存在すると信じるために、ギャル
ゲーは作られ、それをプレイする男達の萌えもある。
だが、やはりその夢はかなわないというほうに、私は一万円ぐらいなら賭
ける(意外と安い。本当は負けたほうがいい賭けだからな)。普通そんな
ことやっているうちに、現実の恋愛競争でのランキングはどんどん下がっ
ていくし。得られたかもしれない程々の愛さえも、失いかねないのだった
。やっぱ、相手に頼っちゃいけないのか。せめて、ギャルゲーの美少女と
現実の女の子の間をうめる何かが、描かれていればねえ。
「ピアキャロ2」の絵は、結構流して描いたと思われるものもあるが、主
要な絵は一枚のイラストとして完結した世界を持っており、そのためシナ
リオライターの世界に溶け込むことを拒否してしまう。こういった齟齬は
、本来は欠点なのだろう。だが、筋書きを説明するだけの絵がまかりとお
るギャルゲー界の現状を思えば、このクォリティは、やっぱ誉めておいたほうがいい。
ところで、この絵を十分に生かすようなストーリー、シナリオは可能だろ
うか。
それは、もしかしたら、こんな形で実現するのかもしれない。
ひょっとすると、俺も恋愛競争のランキング真ん中より下かも、と思うギ
ャルゲーマニアのあなたが、知っておいたほうがいいこと。それは、じつ
は勝者がいれば必ず敗者がいるのだから、この世界には大昔から敗者がい
て、これからも彼らが消えることはないということだ。これは暗い考えで
はない。明るい考えだ。なぜなら、ギャルゲーをプレイすることは、過去
の恋愛競争の敗者たちの失われた夢を引き継ぐこと、そして未来の敗者に
夢を伝えることになりうるかもしれないからだ。これは大仕事だぜ!
そんな「歴史的」な視点をギャルゲーが獲得したとき、きっと、とてつも
ない傑作が生まれるだろう。そのときこそ、「勝者」たちを見返してやる
ことができるかもしれない。(それこそ真のギャルゲー擁護かも。)