(99/4/4)
80年代の男性向け雑誌というのを思い出してみると、どうしたものかナンパ指南記事が必ず入っていたのを思い出す。しかも、その内容はひどく胡散くさいものが大半で、ライター陣に対して、おまえは実際に試してみたのかと言わずにはおれなかった。
やはり、いちおう自由な恋愛というものが、マスメディアの商品として急速に大衆化してきた時期である。(商品としての恋愛については前述)。これらのナンパ記事氾濫現象は、市場が、消費者が求める男女の出会いの作法を模索する、恋愛産業初期の混乱というものだった、とここでは考えておこうかな。
そんな時代の潮流を受けて(というか茶化して?)、そのころ、エロゲー界にもナンパゲームというものが多くあったわけだ。当時はエロゲ界にも愛なんておわらいぐさ、という世間とおなじ常識があった。いや、ソレ以前に「エロ画ふぜいがどの面さげて『愛』っていうか」という、エロメディアとして当然の自覚というものだろうか。というわけで、当時のプレイヤーは、エロい絵を表示させるために、くどき文句を選んで入力し、そんな自分の姿を自ら笑った。
アイデス(現
F&C)の「きゃんきゃんバニー」シリーズも、そんなナンパゲームの一つだったわけだ。
同シリーズの4作目「きゃんきゃんバニー・プルミエール」、5作目「きゃんきゃんバニー・エクストラ」は、作風としてはラブコメ色が強くなった。これは現在のギャルゲー・ソフト路線エロゲーの主流につながるものの様にも見える。しかし、上記のとおり、当時エロゲ界には「ほんとうの愛」なんて恥ずかしげもなく言える空気は意外となかったことに注意してほしい。コンシューマ機系恋愛シムの流れもまだ流入していない。
上記2作は、愛が存在するという前提が利用できないような場所に出てきたのだ。両作は自らの表現力だけで、愛の存在する可能性を、ゼロから証明しなければならなかった。
今日、「純愛」という言葉を笑うのはたやすい。
愛は十二世紀のヨーロッパの吟遊詩人が発明したフィクションだといわれる。が、そのこと自体よりも、いかにして彼等はこの偉大なフィクションを創作し得たか、のほうが私にとっては興味深い。西洋人の武力と経済力のオマケとして、であっても、一度は世界を席巻した「愛」という空想。
わたしたちは、かの吟遊詩人たちの才能のヒトカケラでも持ち得るか?
いくら愛を笑ったところで、この問いの答にはならない。
PCエロゲーというジャンルには独特の気風があった。あるジャンルというのは、作品の形式や様式だけではなく、製作者側の人脈や客層、時代環境などの外的な要因にも起因して生じる。
衰退したパソコンゲームの残党としてのエロゲー。
初期のパソコンゲーム特有の手づくり臭い魅力は、エロゲーの中のみ生き残る。
そこには、俺達にとってエロって何なんだろう、とエロメディア風情のくせにまじめに考えざるを得ない空気がある時期生じていた。
ならば、ギャルゲー、エロゲーを、俺達なりの「愛のカタチ」を生み出す場所にすることも不可能じゃないよ。
「きゃんきゃんバニーエクストラ」に私はそんな可能性を感じたものだった。
「プルミエール」「エクストラ」両作では、これといった取り柄もない、もてない主人公(男子大学生)が、いろいろあって弁財天スワティをはじめとするコミカルな七福神に女縁を授けられるという設定になっている。ゲーム製作者も、登場人物も一様にそう言うので、みなすっかりだまされて、このゲームをそういうダメ男が魔法めいた力でアレしてしまう夢物語のように思ってしまうが、騙されてはいけない。この主人公はなかなか冴えてるやつだ。この登場人物の、楽しいことをありのままに楽しむ才能を思うと。
主人公のせりふを、いくつか拾ってみた。
「女の子の膝小僧…まあるくて白くて傷一つないんだな。」
「ああ、女の子が俺の部屋にいるなんてカンゲキだなあ(はあと)ほのかに千里ちゃんのシャンプーの香りがするよ。くんくん(はあと)」
「こう素直にニコニコされるとこっちの心もあったかくなっちゃうよ!」
「お酒が入った女の子って、頬がほんのり赤くなって目もうるんで、唇も濡れて…うはーソソられちゃう(はーと)」
「くくく、よかったナァ。意外なトコでも感じたりして、女の子のカラダってナゾだな〜」
何だこれわ!単に鼻の下の伸びた、しまらないスケベ野郎ではないか!
いや、たしかにそうなんですが…ちょっと待て。
私達は、自分の中の欲望の形を、このようにふだんはっきりと意識することが出来るだろうか?膝小僧にエロティシズムを感じ、また感じている自分自身を認識して楽しむような感性(←これはどう見ても、すでに性欲ではない。「萌え」か?)は、そんなにありきたりのものだろうか?
世間では男の性欲は本能だってことになっているが、そんなに単純なもんではないでしょう。さもなくば生理的なことからは説明できない各種の変態さん、マニアさんたちの立場がない。エロティシズムにはじつは相当後天的なぶぶんがあるということに気づくには、心理学の力を借りるまでもないことだ。だが、「性欲」というコトバが解りやすいので、つい、ココロとカラダが相互作用していることを忘れてしまう。エロティシズムというのは、ココロとカラダが出会う場所のことであるはず。
「エクストラ」の主人公の、一連のせりふは、自分の中の衝動や喜びを、「性欲」という解りやすい概念に丸める手前に踏みとどまり、感じたありのままを言葉にしようとする傾向をもつ。
女のコの髪の匂いや膝に欲情するのは、たんなるフェティシズムではないか?と思うかもしれない。
それはそうだろう。
しかしそれなら、「愛情」(とかつて呼ばれたもの)は、セックスと、人間の全人生を関連づけて欲情するという、究極のフェティシズムではなかったか?
まあいずれにせよ、先にも述べたように、80年代軽薄パンパ文化の流れを汲むナンパゲームとして、また低俗ないちエロゲームとして、このゲームでは「愛情」というある意味便利な言葉が禁じられている。
ソレでも、登場人物たちは「性欲」などの身体的な概念だけでは説明がつかない、しかし「気が合う」とか「人として尊敬できる」などの心理的な説明ともそぐわない「なにか」を感じる。これを「愛情」という言葉ヌキで、説明しなければならない。
それがこのゲームのせりふ書きが置かれた状況である。またそれが、このゲームの会話の軽妙な魅力を生み出す原動力なのだった。
筆者には、フリーセックス思想と、禁欲思想は、一脈通じているように思える。
両者は、エロティシズムと精神とを切り離したがっているという点では、同じよーなもんではないか。
前者は、エロティシズムを純粋に肉体の問題とみなし、精神(の大事な部分)にはなんら影響を及ぼすものではないとすることにより。
後者は、エロティシズムを生活全般から切り離すことにより、という違いはあるが。
「エクストラ」の主人公は、これらと違い、女の子と一緒にいるということに、ココロがいつでもが振り回されているし、その状況を一人称で語り、また自ら楽しんでさえいる。
実は、筆者的には、「エクストラ」の主人公は、ゲームというものの登場人物の中ではめずらしく尊敬できる人物である。というか、こんな男になりたい、とも思ったこともある。しかし、現実にはこのようなオトコはやたらにいるものでもないし、まして、私ごときにはなれるものでもなかった。
それでもゲーム中では、彼や、その他の女の子達が、それなりにリアリティをもって存在できる設定が工夫されている。
「プルミエール」「エクストラ」では、主人公以外には男がほとんど登場していない。性別を感じさせない七福神のじじい等くらいである。
世の男の子にとって、恋愛は競争であり、ステイタス争いでもある。もし、主人公の男友達などが登場してくると、そんな浮世の義理も書かねばならなくなったかもしれず、違ったゲームになってしまったかも。
このゲームでは、ほかにもフィクションな部分が、リアルな部分を表現するための手段として、うまく利用されている点が多い。
スワティが、主人公に対して、女の子達との出会いは魔法の力だが、実際に仲良くなったのは主人公自身の力だと言う場面がある。これは単なるプレイヤー向けのリップサービスではないだろう。「愛情」という言葉が、楽しさから離れて一人歩きして、自己目的化してしまうのは、男の方にありがちなケースであったから。女のほうが先に「愛情」という言葉のデカさに疲れてしまう場合も多いようだ。そんな女達から見て、彼のような男はけっこうイイんじゃないか?。
「オレのことを好きだっていうコが好きだよ〜」(プルミ?だっけか)
「エクストラ」で、スワティが魔法を使う場面は、ゲーム初頭の、主人公に女縁を授けるところと、エンディングで、プレイヤーが選んだ女性キャラと、「ずっとうまくいく」ようにしてくれる部分だ。じつは、このゲームで、現実にはちょっとムリだろ、と思う部分は、ちょうどこの二つの部分だったりする。はじめと終りに大きなフィクションが有って、そこにはさまれた部分の物語は、それなりの法則性とリアリティをもって転がっていく。ゲーム製作者は、物語への超自然力の導入について、かなり自覚的に処理しているようだ
それはつまり、この世界のこんな現実を私に告げていた。
「愛情」というものはありうる、あるけど、そこへいたる方法が(魔法でもない限り)ない。すくなくとも、私達にとっては。