ギャルゲー&エロゲー論について、「こういう線から論じたらどうかな」と思っていたことを書いてみた。「自分で実践しろ!」ですか?ごもっとも。ただ、いま最近のそういうゲームに現物として触れる余裕がないもんで。ここはひとつ私のエロ&恋愛ゲーム原論として読まれたい。
日本の文芸趣味にがっちりと組み込まれているエロのパターンがある。善良で紳士的な男と、その恋人の女かなんかがいて、女はいかにも屈強でがさつな男に(多くの場合恋人の目の前で)強姦されて、女は結局強姦者のほうがよかったといってそっちについていってしまうという筋書きだ。文学から映画まで、執拗に繰り返されてきた、今も繰り返されているモチーフだ。
これは決して単なる男の欲望の肯定ではない。男たちは意外と寝取られ男の方に感情移入してこの手の物語を見ていたりもするもので、話は結構複雑なのである。
事実関係をいえば、上記のようなパターンは現実にありうるものだろう。これは男女の差なくいえることだが、暴力というのは、振るう側はもちろんだが、振るわれる側にとってもすごく開放感があることなのだ。強いものに服従する、そういう状況では私たちはプライドとか人間関係とかめんどくさいものからすべて開放され、ただ物理の法則にだけ従えばよいからだ。
難しい問題として、上記のエロパターンを女性差別だとかいって否定すると、大きなジレンマが生じるということがある。つまりそこには、理性的で自分をコントロールできる人間の方が高級だという、もう一つの差別が生まれるからだ。
わたしもあまり暴力が得意なほうじゃないから本当は認めたくはないんだが、人は1、2回殴られると怒るが、100回殴られると殴ったやつのことを愛するようになるのだ。一方、殴ったり犯したり殺したりしないからといって、相手が尊敬してくれるというわけでもない。当たり前だと思われるだけである。この事実を受け入れた上で「それでも俺は暴力は振るわないぞ」と言えて始めて本当の反暴力と言えるんだろう。まあ、ちょっと関係ない話だ。
私なんかより一回りか二回り上の世代の日本の男にとっては、そういう強姦者の勝利はある種の思想だったらしい。たとえば、かの「政治の季節」においては、男と女がお互いの人格を認め合って恋愛するというのは、ブルジョワ中流家庭のイデオロギーであって、これは唾棄されねばならないという風潮があった。その辺の関係で政治思想とも密かな連携をなし、強姦者が中流的性秩序(恋愛至上主義)の破壊者として祭り上げられる場合さえあった。それがかつての日本でのエロメディアが秘めていた思想だった。(歴史の授業終わり)
しかしギャルゲー&エロゲー全盛期にいたって、以上のようなエロメディアの夢が大きく変貌しているように思われる。
パソコンゲームの「鬼畜もの」といわれるような分野に「旧エロメディア」ノリの作品が増えてきたのは最近のことで、この業界の本流は現在の恋愛シミュレーションブームにつながるような、美少女ものであったし、いまもそうだ。この手のゲームのヒロインたちは多くの場合、合理的で気丈であって強姦されてもその男になびいたりはしない。彼女たちは、(たぶん現実とは微妙に違って、)よくしてくれる男を愛し、ひどいことをする男、無神経な男を嫌う。だからプレイヤーキャラは「紳士的な寝取られ男」にはならずにすみ、ひと安心というわけだ。これはギャルゲーマーの女たちに対する欲望が「女は強い男に服従すべし」から「女はよい(尊敬できる)男を愛するべし」を前面に押し出したものになっていることを意味する。身勝手であることは、どちらも変わりがない。多分後者の方がより身勝手だ。俗説とは異なり、女が理性的で強くあることと、女性差別の解消とは特に関係はないわけだ。
ギャルゲーとは、女たちが男にとって合理的で理解可能であって欲しいという、ちょっとナサケナイ系の夢なのだ。
しかし、それでもギャルゲーが面白いのは、そこに男たちの(おれたちの、ということにしておこう)欲望が見事に(恥ずかしげも無く、という意見もあるが)描かれているからなわけで。そういうことを表現するのは、大きな意味がある。
(自分を知らないやつは、他人を愛することはできないって、昔のえらい人がいってた。)
たとえば女たちから見れば、さっきの2つの種類の欲望のうちどちらの方が、より御しやすく、つきあいやすいものなのだろう。
もし貴女が(女性読者はいないとおもうが)愛情になにより持続性を求めるようなタイプであるとするなら、上記のような、本音では密かに、女性に勝手な理想を求めてしまう「ギャルゲーオタクの純真」は、調教(って、オイ)次第によっては、都合のいいものになるかもしれない。少なくとも、いい女をゲットすることを自分の社会的ステイタスと考えるタイプの男よりはあなたにお似合いだ。そんな現実的な駆け引きの中にだって、愛情とよんでかまわないものがあるかもしれない。
まあ、そんなのがとりあえず、ギャルゲー現象を論じる上で気に留めておくべきこと。現実と空想にまたがった、ギャルゲーとギャルゲープレイヤーをめぐる愛と夢の状況じゃないかと思うが、どうか。