wizardry賭博説

ええ、まずはヨタ話から…
昨今の不況というのは、勝者と敗者をそれぞれはっきり自覚させ、また固定化てしまう状況ではありますよ。景気がよくて、ささやかな夢でよければこれをかなえるチャンスはいくらでもあると思われるとき、「いま」が不遇だといって負けを強く意識することではない。
一方、勝ち組の連中としては、自分たちの勝ちが時流のおかげなどではなく、正当な権利だという証拠が欲しくてしょうがなかったりもする。聞かれてもいないのに実力主義について説教したがるやつが増えた。自分が腕ひとつで食っていると思い込んでいる若いはやりのIT技術屋にそういうやつが多いようで。まあ息苦しい世の中になったもんです。情報化社会は情報を持つものと持たざるものとの間の堅牢な階級社会でもあり、この新しい身分制度を肯定するイデオロギーが強く求められているのであった。まあ、実力「主義者」は、社会的、文化的階級の存在を指摘すると躍起になって否定する人が多いんですが。
しかし、「実力」というのは、本来とても複合的で、長期的に測るべきものだったはず。
私たちにある程度、見てはっきり解るのは、一回ごとの「勝ち負け」だけだ。勝ち負けの要因がどこにあるのかは、いつもよくわからない。たしかに、いつも勝っているヤツと、いつも負けているヤツが世の中にはいるから、なにか個人の中に勝敗を分ける要因…「実力」が存在すると考えると、いろいろなことがうまく説明できて便利だ。努力目標にもなる。
でも便利だというだけで、実体として、「これが実力だ」と指し示すことができたヤツはまだいない。もし実力とは何かがはっきり解っており、それを得るための訓練の量によって勝負が決まるものならば、勝者が世の人々から宗教的なまでの畏敬の念をもって迎えられることもないだろう。
勝ち負けというのは不条理なもので、その不条理に自分を賭していく決断がつねに問題になるんだろうと思うんだが。
にもかかわらず、いわゆる「実力主義」は、なぜか合理主義や客観性、はたまた自由といった考え方、理想と結びつけて語られることが多いのだった。
長期的な勝ち負けや利益にかかわる「実力」をそんなに合理的、客観的に測定できればだれも苦労しないし。
まったく、RPGのパラメタじゃないんだからさ。
って無茶苦茶わざとらしいネタフリで申し訳ないんですが、そもそもRPGといえども、最初から「強さ」が明快に定義されているようなもんだったんだろうか?
思うに、すべては20年前、wizardryという得体の知れないゲームを、どう解釈するかという問題から始まったのだった…

wizardryが未だにリメイクされ続けているのは、決して、最初のコンピューターRPGという歴史的位置づけによる懐古趣味ではなく、多くのゲーム制作者が、自分のゲームでwizardryのおもしろさを再現しようと試みたのにもかかわらず、誰にもそれが出来なかったという現実的理由によるのだろうと思う。
日本では、かつて本国もかくやと思われるwizardryへの支持があり、業界関係者にも影響を受けた人物が多かったことを思えば、決して「流行らないから作らなくなった」というものでもなさそうである。
たとえば、Wizはちょっとしたことでプレイヤーキャラが死にやすい、手厳しいゲームだという印象を一般に持たれている。この性質を忠実に再現しようとして、運任せの不可抗力的なプレイヤーキャラの死を持ち込もうとしたゲームもあったが、こういうゲームは単にストレスがたまるだけの、wizとは似ても似つかないゲームになってしまうのであった。死ぬ確率の高い低いは、必ずしもwizの本質とは関係なかったのだ。やがて、ほとんどのゲームはあきらめて、予測して回避できる死と、ロード&リセットを基本としたゲーム性に移っていった。
しかし、クリティカルヒットやオートセーブのような強烈な印象をもったゲームシステムに惑わされがちだが、wizは「必ずしも」よく死ぬゲームではなかった。
wizの戦闘は最初のターンの呪文投入量で半分決まるが、ここで呪文を惜しみなく使う。十分にレベルが上がるまで下の階には行かず、やばそうな宝箱は迷わず捨てる。なるべくまめに地上に帰る。そうしていれば、序盤は別として、じつはそれほど無闇に死ぬようなこともない。
ただ実際には、そんな地味なプレイには普通は耐えられないのだった。効率よく経験値やアイテムを集めるには、呪文をけちって要領よく勝ち、一回の探索でなるべく多くの部屋をまわり、深層階のテレポーターもどんどん開けるのだ。そして最悪の事態になって、ああ、気を付けていれば避けられたのに、と思うのだった。が、この、「気をつけていれば」とプレイヤーに思わせるがゆえに、ひどい失敗をしてもまたやり直す気になってくるのだった。
しかし、やはり一方では、本当に「気を付けていれば避けられた」のかという疑問が残る。ほとんど伝説となっている石の中全滅は、やっぱりただの不条理な死ではないのか?また、もともとそんな安全第一のプレイでクリアするようなゲームバランスにはなっていないではないか?wizardryにおいては、一体どこまでがコントロール可能で、どこまでが運任せなのかが非常に分かりにくいのだ。データを厳密に集めればいつかは完璧な競馬予想のメソッドが確立できるはずだと信じて、大金突っ込んでいるような気分というか。
Wizのキャラクターの能力値って、どの程度影響しているのか良く分からないしねえ。
だが、先にも述べたが、ゲームにせよ現実にせよ、本来勝敗をコントロールする力…「実力」というのは形而上の概念だ。実力と運は厳密には区別が出来ないものなのだ。そもそも私達の素朴な経験としても、「勝敗」という現実に対して運と競技とを見出すのはあくまで人間の側の都合ではないか?
遊びや、日々の生活のための戦いの中で、一体自分のしている努力は方向性がまったく見当違いなのではないかという疑いに駆られたり、逆に、過去に役に立たないと多くの作業を切り捨ててきたことが、じつは怠惰のいいわけだったのではないかと迷ったりする。そういう答えの出るわけもない、どこまでが自分の責任=競技性なのかという問いに常にさいなまれながら、とりあえず出来ることをやっていく。それが私達の知っている「勝負」だったはずだ。そういう経験を理解するという立場から言えば、運と競技性という区別にあまり意味は無い。
ゲームの出来を批評する文章では、「賭博的」という言葉は、「プレイヤーが結果に介入できず、したがってあれこれ工夫して楽しむということが出来ないダメゲーム」というニュアンスで使われることが多い。だが賭博=完全に運まかせというものではない。本来の賭博でも、先の競馬予想ではないが、もしかしたら結果をコントロールできるかもしれないとぎりぎり感じさせるところにその中毒性があるのだ。wizardryは、そういう本来の意味の賭博らしさ、運と実力というもっともらしい区別が入る以前の「勝負」そのものの感覚を取り込むことが出来た、思考型のゲームとしては珍しい例なのだ。
ほんらいこういう意味での賭博性を取り入れやすいのは、コンピューターゲームではいわゆるアクションゲーム、反射神経というか、身体を使うゲームではあった。なにしろカラダほど訳の分からないものは無い。訓練をすればある程度動くようになると見えて、ちょっとした気分や体調の変化で予想もしないおかしな反応をするのが自分の体。だからスポーツをはじめ体をつかう遊びはいつも多分に神秘的で、一回ごとの勝負が新鮮だ。
しかしアクション系のゲームでさえ、ゲーム好きなプレイヤーが、過去のゲーム経験を生かして安定して攻略できるように、賭博性を排除する方向で作ってしまうことが多い。作り手にとってもその方が作りやすいらしい。
さらに、これが思考型ゲームの世界となると、賭博性の導入はなおのこと難しい。一般には思考というのは合理的で隙のないものが理想とされているぐらいだから。しかしwizardryの場合、ゲームプレイで要所になるのは、プレイヤーの合理的な推論とか、計画性とは何か違う。アイテムに欲をかかないとか、几帳面さなど、なかなか一律に制御しがたい心の働きをゲームのなかに引き込むことに成功している。それが、wizardryのゲームプレイを、良質のアクションゲームのようなみずみずしいものにする事を可能にした。してみれば、単に不条理に死亡確率を上げただけのゲームが、wizardryのおもしろさに至らなかったのも当然だった。賭博性はゲームの中にあらかじめ存在するのではなく、プレイヤーの中の予測不可能性が引き出されてくるものなのだ。
のちにゲームファンの間では「wizardryには自由があった」と回想されることが増えるが、それはどこか息苦しい「実力実体主義」からの自由をさしていたのだ。
ところで、このwizardryの賭博的なスリリングさは、どうも制作者によって明示的に追求されたものなのかいまひとつよくわからない。wizardry制作の動機としては、「(卓上でやる)RPGをパソコンでプレイできるようにしたかった」というような話が伝えられているくらいである。
私の感じとしては、やはりwizardryは、参考にするべき前例がまるでないという特殊な状況のなか、暗中模索の作業が偶発的に生み出したゲームだったと思っている。ゲームの制作そのものが賭博的。まあこれでは後進が意識的に真似しようとしても、できないのも無理はないかもしれない。
だが一方でwizardryのおもしろさを再現出来なかった今ひとつの理由は、wizの自由さの本質を「想像力」…ストーリーを持たず、シンプルな映像表現により、プレイヤーの想像力の自由な飛翔をゆるす性質にあると解釈したことにも始まるのだった。やはりゲーム黎明期のマニアの中では、ゲームがオトナがプレイするに足る「高級なもの」で有って欲しいという強い願いがあったのだ。「wizardryの本質はバクチだ」というんじゃあ、ちょっとねえ…
そんなこんなで、wizardryのもつ中毒性のある賭博性は、次第に忘れられていった。ストーリー性のつよいRPGであるか、いわゆるゲーム性を標榜するゲームであるかを問わず、いまどきのRPGの「システム」とは、「強さとはなにか」をあらかじめ定義するなにものかである。

現在、ストーリー性がゲーム性を阻害するという話は、ゲームについて論じることを好む人たちの間では、もはや言い尽くされた感のある議論である。しかし私に言わせれば、むしろストーリーの方こそ、コンピューターゲームにありがちな「実力実体主義」に厳しく規制されてしまっているのだと思える。
私が子供の頃、パソコンを持っている友人の家におしかけ、wizardryをプレイしていくなかで奇妙な習慣がうまれた。寺院で死んだキャラクターを復活させるとき、画面に表示される呪文を、その場に居合わせた全員で復誦すると、成功確率が上がる!というものだった。
子供がしばしば好む呪術ごっこ遊びの一種でもあり、一人プレイ用のゲームをみんなで楽しむという必要上生まれたものでもある。ともあれ、そんなことに効果があるかどうかとは関係なく、そうすることで私たちのゲームプレイは間違いなく充実していた。wizardryはある意味、呪術的な感情が誕生する瞬間さえも捕らえることに成功していたとは言えないか?
そもそも、賭けは祈りに通じ、祈りは慈悲に通じるものなのだ。
現代は人間が運命や天意…人間の限界に鈍感になった時代だ。権力への意志から、運命への敏感さを無くしたならば、無責任な現実肯定しか残らない。
ゲーム、事にロールプレイングゲームのストーリーでは、あれだけ戦闘が氾濫していながら、こういった日々の先の見えない戦いを前にする人間のありかたを描くことなどは最大の死角となっていないか。ゲーム臭いストーリーをもった少年マンガがどこか単調なのは、ただ戦いの場面が多いからと言うわけでも無いだろう。
思うに、ゲームらしいゲームを取り戻すためばかりではなく、ゲームと筋書きのよりよい関係を模索するという観点から見ても、wizardryにはなお色々なヒントはありそうだ。

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