昔のウルティマについて

わたしのRPGの原点がウルティマシリーズであることは何かにつけてほのめかしてきたのだが、これまでまともに論じたことはなかった。今回はウルティマ4、5あたりを念頭にしゃべくることにする。
いわゆるフィールドタイプのRPGといわれるウルティマだが、その本当の特徴は「フィールドタイプ」ということにあるのではない。
初期から中期のウルティマシリーズで一番かなめになっていたのはやはりFOODの存在だろう。歩いているだけでも食料を消費するので、時々買い足すんだが、これは、どんな行動をするにも食費、旅費という資本がかかるということを意味していた。たとえばやみくもにうろつきまわって出てくる敵を倒しているだけでは、収支が赤字になってしまうことも多い。ゲームの序盤では一刻も早く効率よく儲かる行動パターンを自分なりに見つけることが急務であった。さもないと金も食料も尽き果ててにっちもさっちもいかなくなってしまうのである。ここがまず非常に面白い。
とりあえずダンジョンなどに潜るとして、そこがちゃんと儲かる場所か自分で判断しないといけない。だめそうだったら早めに切り上げないとまずい。中期のシリーズでは食料以外に魔法の秘薬など消耗品がやたらに多いのでなおさらである。ある程度金が溜まったら、それをどう使うかも難儀で、消耗品を大量に買い込んで、遠征を行ったり(おもしろいショップや稼げる場所があるかもしれない)、消耗攻撃アイテムを買って強敵を倒す(序盤からいい装備が戦利品として手に入るかも)、など、いろいろバリエーションが考えられる。だが、なんとなく店で売っていた強い武具を買ってしまったのはいいが、その投資に見合う適度な強さのもうかる敵が出現する場所を事前に把握していない場合、無駄な投資となって、身動きが取れなくなってしまうということもありうる。
新しい仲間を入れるときも、食費が増大するので、タイミングを考えていれなければならない。
いっぽう沿岸部でうろうろしていたら突然襲ってきた海賊に偶然勝利し、いきなり船が手に入り行動範囲が急に広がるというケースもある。そういう場合は臨機応変に対応しなければならない。工夫次第で非常に楽ができる可能性もある。考えれば、必ず効率の良いルートが見つかるのである。
このように、シナリオ進行に伴う「関所」を一切儲けないようにしたうえで、食料・消耗品システムで行動範囲を制限する、ただそれだけのことで、国産のRPGとはぜんぜん異質な世界になってしまったのである。「自由度」というがこの場合ただ単に食い物の問題だったのである(…)。もしドラクエに「食料」という概念があったら、日本のRPGの歴史は変わっていたかもしれない(うそです)。
と、知らない人も多かろうと思って、説明が長引いてしまった。まあシステムとしてはウルティマはこんな風である。だが、このゲームは、同時にシナリオゲームでもある。そこには製作者が意図した筋書きもちゃんと機能しているのである。シナリオというのはさすがに無理があるかもしれない。たた、製作者サイドの意図と、作者による「表現作品」という側面が強くあり、それが各イベントなどを重厚なものにしている。ウルティマは「勝手に遊んでください」という自由度万能主義(このページをはじめて1年のうちに、そんな人はほとんど居なくなってしまったんですが…)のゲームではない。
Ultima4以降の特徴として誰もが上げるのが、ゲーム内世界で信奉されているという設定の「8つの徳」といわれる、形而上学的道徳思想である。哲学や思想としてどうだというようなものではない。基本的には、ほかのRPGでも好んで採用されている形而上学的世界観(四大元素うんぬんとか、光と闇がどうのこうの、というもの)と同じ役目を果たしている。つまりお使いイベントや重要アイテム収集にメリハリをつけ、ゲーム内世界の雰囲気を盛り上げるものである。
ただ特徴的なのは、ゲーム中の登場人物(というか、フィールドのあちこちに点在しているNPC)皆それぞれにこの道徳思想についてそれなりの見解を持ち、それにもとずいて日々生活を送っている様子が描かれていることである。中期のウルティマシリーズではNPCとの会話は、キーボードから何らかのキーワードを入力するとそれに応じた反応が得られるという方式である。その会話の端々に、かれらの「生きざま」がのぞくという趣向になっている。こう書くとやけに辛気くさいゲームのような感じがしてしまうのだが、何かを信じ、何かに仕えるということが不自由と感じるのは、現代特有な思考である。
このようにして描かれたブリタニアは、およそ現代世界とはまったく違う世界を作り出している。(多くの中世ファンタジーRPGでは、小道具以外はすべて現代風で、登場人物もすべてなかみは現代人で、自由と自立と愛のために戦う)。中世世界の人間は、現代人には想像も出来ないほど信心ぶかかったという。信心深さは善悪とは必ずしも関係ない。昔も悪党は大勢いたが、かれらは自分たちが死後、地獄に落ちることを信じて疑わず、それでもなお悪事を働かずにはおれなかったようである。
現代人はこのような前近代人の信仰心を昔の人の愚かさのしるしと解釈したがるが、そんなわけはない。昔の人間の大部分(ということは、これまで地上に生まれた全ての人間のうちの大部分)が、現代のわたしたち以上にバカだったというのは、常識的な考え方ではない。
前近代では、忠誠心や信仰心をもって何かに仕えていることが、自立した自由な人間の証明だった。騎士階級が庶民を軽蔑したのは、彼らが忠誠心ではなく、アメとムチでもって仕えていると考えたからだ。そして王や皇帝も、神や古いしきたりや祖先の霊に仕えるものだからこそ、その地位がある。
ウルティマの世界は本物の中世とは当然異なるが、限りなく現代世界とは異なるセンスの支配するおとぎばなしの世界だ。畑をあわわすマップチップの上をちょこまか動く人の形の記号は、「謙虚さ」の徳を追及する農夫だ。毎日規則正しく畑に出るこのキャラの行動は(それ以上複雑なプログラムがないだけなんだが)私にとっては、彼の先祖もそうしてきたように、反復を謙虚に受け入れることによって、彼の祖先、子孫、および世界と一体化しようとする試みのように見えたのだった…。このように現代人とはかけ離れた人々と出会い、旅をしてるような雰囲気を味わうことが、Ultima4〜5をプレイするということであった。
Richard Garriotも典型的に、自分の才能が具体的にどこにあるのか自覚的でないタイプのクリエイターのようである。Ultimaシリーズではその後、環境問題に言及するとか、ブリタニアに民主政治を導入するなどの勘違いがぶちかまされるのだが、元が現代とはかけ離れたセンスに支えられているため、Ultimaの雰囲気が壊れることはなかったのである。(ただし、R.G.の頭の中では、自分はごく普通の今風の物をつくっていると信じているらしく、Ultimaと環境問題がまったくかみ合わないとは思っていないらしい…ある意味すごいが)
さて、時代は大きく下って、Ultima Online。まったく新しい実験的試みとして、評価と批判を受けたこのゲームで、ネットワークマルチプレイゲームの魅力と問題点が、あらかた出尽くした観がある。
UOという巨大な演劇の舞台に立った「俳優」としてゲームを自ら盛り上げる気持ちが皆無なプレイヤーと、それが引き起こす問題をどうするか?またそもそも普通のプレイヤーにそんな高い意識と努力を求めるほうがおかしいのではないか?仲間内ならともかく、見知らぬもの同志でそんな連携が出来るのか?
これらの問題は、古い「自由度」の議論の現代版としてもなかなか面白い。ここでもUltimaは、いかにもUltimaらしい対処の仕方をしているように思える。成功したとは言わないが、努力はしている。
わたしは、UOをプレイしているとき、森の中でだれかが木を切ったり、弓を作っているいる音が聞こえて来たり、狩りをしているPCを見かけたりするのが好きであった。なぜなら、かれらはブリタニアの風土に、その住民として完全にマッチしているからである。(かつてUltima4〜5で出会った信念に満ちた民衆を思い出す)このPCらも基本的には強くなってfameを上げるとか、わりかしステレオタイプな動機で動いているのではあろう。ただゲームの仕組み上最初のうちはこういった労働もしなければならないのだが。しかしそうすると、そのような普通のPCさえも、UOのゲームシステムは、ブリタニアの風土を表現する一部として利用しているとも言える。
ネットワークマルチプレイは、その新鮮さ故にそれだけが強調されるが、Ultimaにとっては、ネットワーク性も、自分たちのゲーム世界を表現する一手段なのであり、「とにかくネットワーク対応」を目的としたゲームとは違う。
「ネットワーク」を「自由度」と読み替えれば、それは古いUltimaがずっとやろうとしてきたことと変わらない。Ultimaシリーズの行動の自由さは、その独特なゲーム内世界を十分に堪能してもらうための手段だったのだから。

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