自由度の神話2:TRPGのPC化路線が見た夢は?

<承前>

「自由度」の変質

PC−RPGの一番熱い季節が過ぎた後、TRPGのPCゲーム化という路線がうまれた。そのころはコンピューターゲームの最大の特性はそのインタラクティブ性(双方向性)だと思われていた。そんな思いが、TRPGの自由度を取り入れようという、そういう流れを作ったようにも思う。アメリカにおいてはD&DのPC版が硬派RPGの一つの流れとなり、超大作に次ぐ中堅作品の層を成した。また日本における一時のTRPGの流行はPC−RPGファンからの流入が多かったようだ。現在のTRPGプレイヤーは当時にこれを始めた人が多く、新規のファンは少ないらしい。そのへんTRPGメーカーは苦労しているようだ。つまりそんな風にして、PC−RPGとTRPGの蜜月がかつて存在していたということだ。
ところでTRPGでは、参加者の発想が豊富であれば、全く自由なゲーム展開が可能だが、そうでなければ結局紋切り型の展開になってしまう。もしあなたにイメージの引き出しをたくさん持っているTRPG仲間がいるのならば、それはラッキーだが、もしそんな仲間がいるなら、結局ほかの遊びのほうが楽しいんではないかという疑問も出てくる。世の中で一番自由度の高い遊びはRPGではなく、「普通の遊び」だから。町へ繰り出したり、野山でキャンプをしたりという「ルールの無い遊び」では、いい遊びのセンスを持った仲間が不可欠だ。そのへんが、TRPGが決してメジャーな遊びになれない一因でもあるのだが、一方TRPGの本質はじつは「自由度」ではないのではないかということも見えてくる。

自由度への渇望は、自分もクリエイターになりたいという欲求へと帰着していった。

TRPGマニアのなかには、キャラクター制作に凝りまくり、キャラクターの過去などを詳細に設定する「キャラメイクマニア」や、冒険の背景となる世界の歴史や宗教の設定に精を出す「世界設定マニア」がいる。TRPGとは自分で物語をつくり、それを誰かに語って聞かせたいという「物語りの欲求」を刺激するしかけだったのだ。PC版TRPGが成り立つ理由もそこにある。誰もが物語作家になれるように、詳細に用意された背景世界や人物の資料。そういうイマジネーションを刺激するアイテムがTRPGの本質であるため、たとえ有限のプログラムの上でも、それを再現することは可能だったのだ。日本のTRPG熱が、「ロードス島」あたりからキャラクターものの方向へ向かったのも同じ理由によるのだろう。そういうふうにして、初期パソコンRPGの熱狂の一部は、自由度の問題から、作家性の問題へと変質していく。そんな中でTRPGのPC化路線は、中途半端な存在となり、次第に力を失っていく。

いまや「自由」と「シナリオ」は矛盾しない

多くのゲームクリエイターはいまでも自由度とは選択肢が多いことだと思っている。マルチストーリー、マルチエンディング。だがプレイヤーはそういうのを求めているんだろうか。自由度を強調するゲーマーが本当に求めているのは「私もストーリーを語りたい」という事ではないのだろうか。そこで問題になるのは、ゲーム製作者の世界観、人生観のキャパシティの大きさだろう。プレイヤーの多様な語りへの欲求をすべて受け止めることが可能なような、懐の深い世界をゲームに盛り込むことができるのか。もし今そんなゲームができたら、自由度信奉ゲーマーの支持を一気に集められるとおもうんだが。今自由度について語るなら、そういう作家性、ストーリー性の問題と切り離すことができない。
補記:ネットRPGはどうなの?
ネットRPGにおいてもTRPGと同じような問題が生じる可能性がある。もうすこし様子を見たいところ。

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