伝説のゲーム会社スタークラフトについて語るシリーズ2回目の今回は、その他に類を見ない独特の美意識について、考えてみる。
古くから、海外(事実上、米国)の大作アドベンチャーゲーム/ロールプレイングゲームの、国産PCへの移植を手がけてきたスタークラフト。見た目までオリジナルに忠実な移植が特徴だった同社の仕事も、80年代後半になって大きな転機を迎えた。
つまり、このころ8ビットパソコン時代の末期、アメリカのPCゲームが古き偉大なAppleII、AppleIIe 上での動作を重視して作られていたのに対して、日本国内では高い表現力を持った高性能8ビット機にPCゲームの中心が移っていた。そのため内外のゲームの映像表現力に大きな違いが生じていたのである。これを受けて、日本国内ではゲームの画像面における、アニメ、コミック文化との接近がすでに始まっていた。アニメグラフィックとゲームとの融合に関するノウハウを、この時期に蓄積したメーカーやクリエイターは、のちにコンシューマゲーム市場において大きな役割を果たしていくことになる。
だが、そんな時代の流れの中で、無骨なゲームばかり作っていたスタークラフトがこの時選んだ道は、現在の主流とはまったく違う、もう一つの「見た目の奇麗さ」の可能性を感じさせるものだったのである。
日本版“PHANTASIE III”のカッコよさ
PHANTASIEシリーズは、やはりAppleII用に開発された古いロールプレイングゲームである。
このシリーズは第三作目までのところ、情報のほとんどがテキストと、少しの抽象的なチップ絵で表現される。こういった表現がゲーム内容とともに、どれほどいい味を出していたかについては、ここでは具体的には触れないが、傑作であったという評価が、その方面では定まっているゲームである。
しかし、この表現の渋さは、当時の技術の問題というわけでもなく、同時期のアップルのゲームと比べてもかなり無愛想な部類に入るのである。こういうゲームを日本国内のPC環境に移行させる場合、やはりもっと絵を増やしてやろうと考えるのが人情というもの。しかしスタークラフトはそうしなかった。決して手抜きをしたのではない。抽象的な文字や記号の中にもまた美しさ、カッコよさがあることを見抜いて、それを国産PC上で強化しようとしたのである。
日本版のPHANTASIE IIIを見ると、まず、いきなり画面がGUI風のデザインになっている。といっても、まだMacでさえ一般のゲーム系のPCユーザーにはあまりなじみのない頃の話である。8ビットから16ビットへの移行期であり、あくまでも擬似的GUIである。88版などはマウスに対応していないので、本当に見た目だけの話だ。だが、これが非常に洗練されていて、粋だったのである。これは初期のWindowsのゲームなどが、お仕着せのGUIによってその表現力を奪われて苦しんだのとは対照的である。
それでも各キャラクターのステータスは白地に黒文字のウィンドウになっており、キャラの名前はタイトルバー風のところに表示されている。そのさいハードウェア内蔵のフォントでは字がでかすぎるので、わざわざ小さい英数字を用意するという酔狂さだ。また、PC88は200ラインなので、16×16の漢字ROMの字体を表示すると縦長になるのだが、中期のスタークラフトの8ビット版ゲームでは、それでは間延びした感じになるというので、わざわざ16×8に縮めて表示していた。こんなイカレた事をしていたのはスタークラフトをのぞいて他にない。PHANTASIE IIIの88版でも、やっぱりそれをやっている。文字情報をいかにカッコよく整理して表示するかに心血を注いでいる様子が見える。
一方、象徴的な記号の使い方もうまい。
PHANTASIE IIIでは「部位ダメージ」を採用している。つまり「腕を怪我して武器が持てない」とか「首が飛んで即死」というのがあるわけだ。これらプレイヤーキャラの怪我の状況を表示するインジケータとして、男子便所のドアに書いてあるような、愛想のない人形が画面に表示されている。しかしこれが、あたかも公文書のような渋味をだしていて、よかったのだ。このへんはApple版のよさを正しく理解して、さらに発展させた好例である。
本物はもっとかっこいいのよう
しかし、このようなデザインの変更はあっても、何か具体的な絵を付け加えるということは全くなく、ゲーム全体が持っている抽象的な画面はそのまま維持されているのである。
こうした日本語版PHANTASHIE IIIや、これと前後する中期スタークラフトの作品から感じられるポリシーは、情報を高い密度で巧みに整理して画面に整列させる、そういう機能美の追求であったと思われるのである。こういった「情報の整理」はパソコンという媒体の本来の機能でもあるわけだが、それを十二分に生かしたデザインであったといえる。
私個人の感想を言えば、これらのスタークラフトのゲームは、ただ画面を操作しているだけでも結構楽しかったのである。文字を読み、記号を解釈する過程も、じつは快楽を含んでいるのであり、ただ意味が通じればよいというものではない。その事を当時のスタークラフトは理解し、「見た目のよい文字系ゲーム」を確立しつつあったのである。
文字系ゲームの復興を目指して
これらのことは、単なる表現技法上の問題で、ゲームの内容とは関係ないと思われるかもしれないが、そうではない。
現在のコンシューマ機のゲーム市場では、「大人の鑑賞に堪える、高級なテーマ、シナリオをゲームに盛り込んでほしい」と言う意見がしばしば聞かれる。そんなゲームが全てだとは思わないが、しかし、忙しい中ゲームをしている大人ゲーマーが、「このゲームに費やした時間は無駄ではなかった」と感じられる何かを求めるというのも、また自然の成り行きではある。KAは比較的、そういうシナリオ/テーマ系のゲーム(スクゥエア系とか)をコケにしているような発言があるので、誤解している人もあるかもしれないが、べつにそういうゲームを否定しているわけではない。むしろかつては大いに期待していた。だが、期待しているようなものはほとんど現れず、現状ではそういったゲームを作る事は、世間が考えている以上に難しいのだと思うようになった。
ならば、それらのゲームはなぜあまり作品として成功しないのか?その一因は、難解で、重いテーマを表現するにふさわしいフォーマットが、出来ていない、ということにもあるようだ。俗にいう「高級なテーマ」は、言葉、テキストで表現される事が多い。だが画面の下のほうに半透明のウィンドウが開き、三行書きのせりふが表示される、そんなありきたりのテキストの扱いの中で、登場人物が一見意味ありげなことを、たいした脈絡もなく唐突にしゃべる。そんなゲームを見るたびに、とてもしらけた気分になる。もし、テキストによる表現を重視したいのなら、それなりの様式とインタフェースを確立しなければならない。そんな時、スタークラフトが成し遂げようとしていた仕事は、多くの示唆を含むのではないか?
だが、時代の流れは、スタークラフトに敗北を宣告する。「かっこいい文字ゲー」の夢が破れたとき、それは日本国内でのPCゲームの衰退をも意味していた。やはりパソゲーの本領は、抽象的な処理にあるのだ。
だがそれでも、私は現在のコンシューマ機のゲームがスタークラフトの遺産を継承してくれたらと思う。それは言い換えれば「コンピュータ」ゲームの復権である。情報処理を本領とする道具であるコンピューターを使ったゲーム、その復興の第一歩としては、ユーザーインターフェイスの充実ではないかと思う。絵師や3Dのモデラーの仕事が注目されることはあっても、インターフェイスのデザイナーが日の目を見ることは少ない。彼らの工業デザイン的な仕事がもっと表現として確立されたら面白いだろう。そのとき、洗練されたインターフェイスが、「難解なテーマ」や「膨大なテキスト情報」を自由自在に手玉に取る快楽、スタークラフト的快楽を私にもう一度、味あわせてくれるんじゃないかと、夢見るのである。