見た目のきれいさについて:「バイオハザード」をダシにして

サターンのギャルゲーマシン化の反動なのか、プレイステーションに多いファッショナブルなゲームが妙に持ち上げられるという動きが一部にあった。
私としても、ゲームをあまりやらない人に「ゲームに詳しいの?なんかおすすめある?」と聞かれたときに堂々とすすめられるようなゲームがないのはつらい。だれか遊びに来たときのために「パラッパラッパー」は常備しておかなければという発想も理解できる。
だけどそんなことよりもつらいのは、「おまえは人に好かれたくてゲームやってるのか」と聞かれて返答に困り、赤面してしまうことだ。あるいはその通りだとしても、不特定多数の人に好かれても仕方ない。心に決めたあの人に好かれるんでなきゃ意味ないもんよ(←何の話だよ)。
ともかく、今回はゲームのファッション性のうち、見た目の美しさの問題について考えてみた。
「バイオハザード」は、人に薦めるのに最適なかっこいいゲームの一つとして、PSユーザー層の拡大に貢献したといわれているらしい。しかしこのゲームに流れている映像センスって相当マニアックじゃないかともいわれているわけだ。
たとえば、思い出して欲しいのは自キャラが攻撃態勢に移るときの動き。あれにはなにか吸い込まれてしまいそうな美しさがあった。ふつうあんなところにそんなに凝らないわけで、これはちょっとフェティシズム的ですらある。そういえばものを拾うときの動きも妙にセクシーであるように感じた(男キャラでも!)。じっさい絵そのものに感情移入できるというのはすごいことだ。それがこのゲームの特徴だったとおもう。
とにかくものの形や動きにすごい凝っているゲームなわけで、こういう部分というのは「グラフィックがすごい」なんていう表現で片づけてはつまらない。ここには「見た目」ということに関するある思想が表れている。
ファッションに対する二つの立場
グラフィックがすごいゲームといえば、たとえばFF7とかがある(いつも引き合いに出して悪いけど、有名なんだもん)。ただ、このゲームでは美しさというのは、特に思想的な意味合いを持っているとは考えない。
FF7の持っている「見た目」に対する考え方を代弁するとこういう感じになる。
人間「中身」と「見てくれ」とがあって、一応中身の方が大事だけど、見た目も汚らしいよりはこぎれいなほうがいいに決まっている。その方が人間関係もうまく行くし。中身をわかってもらうきっかけにもなるしね。それが社交的ってことでしょ。
FFの美術には、このような合理主義の人間観が見え隠れしている。
こういう考え方のもとでは、奇麗さというのは量的に計測できるもの、程度の問題とみなされる。たとえばランクが上がるに連れて壮麗さを増す召喚魔法の映像だ。あれは最後の方ではネタ切れというか、「美しさのインフレ」を起こしていたように見える。ザコを相手に上位の召喚魔法を使うとあまりにアンバランスな絵にすこし笑えた。それはあの美しさが量的なものであるゆえに、新しいパターンを作るのにあたり、どんどんスケールをでかくしていかざるを得ないということなのだ。
バイオハザードも見た目を重視した。しかしその背景にある考え方はもっとヤバいものだ。
お気に入りの服を着れば気分がよくなるし、髪のセットがうまく決まればその日一日うまく行くような気がして元気がでる。逆に気持ちがすさんでいるときには顔つきもとげとげしくなり、見た目に気を使う余裕もなくなる。
要するに人間の中身と見た目はつながりあっていて、人の心なんて簡単に外側の影響を受ける弱いものだっていうことだ。
だから、見てくれの問題をあまりナメていると、外見に引きづられて中身まで腐るということもありうる。用心することだ。...バイオハザードの「見た目」にたいする意識を言葉にすれば、こんな風になるだろう。人間のひ弱さを強調するホラーゲームに適した美術感ではないだろうか。
見た目がそのまま内容を表す世界。そこでは当然見た目のきれいさは量ではなく質の問題になる。だから、FFのようにどんどん派手になる代わりに、ものの形への執着という方向へ向かう。美しさは手段ではなく、それ自体で何かを伝えるものでなくちゃならないということで。
おなじ見た目のきれいさカッコよさにも、こんなふうにいろいろある。
でも私たちの日常生活の語彙は貧しいので、つい「絵が奇麗なゲームだ」などの陳腐な表現をつかってしまう。そしてそんなところから誤解が始まっていく。気をつけたいもんだ。

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