さて、巷のメタルギアソリッド(以下MGS)の評価もほぼ定まってきた。
意見はやはり、大きく2つに分かれるようである。
一つは、その娯楽作品としてのサービスのよさを誉めるもの。
もう一つは、設定やストーリーのいいかげんさ、統一性のなさを難じるもの。
また、このゲームを誉める立場からも、「あくまでも娯楽として…」という、どこか物足りなさを匂わせる意見が目立つのも興味深い。
これらの評価を踏まえて、さらに書き足してみようと思う。
「ゲーム批評」vol.23の小島秀夫の連載コラムでは、氏がMGSに影響を与えた映画について語っている。ここで氏は自分のゲームに影響を与えるのは映画の「一シーン」であると述べ、以下、映画全体の筋書きやテーマや設定などには言及せず、ひたすら映画の「一場面」を採り上げ、これへの思い入れを語る。小島は映画(に限らないが)のテーマや思想性の問題については、それほど面白いこといわないのだが、このような具体的な場面や絵や物に着目するときには、驚くべき観察力を発揮するのだ。
MGSに見られる「楽しいもの」への貪欲さは前回述べたが、これらのことも、一場面、一シーンに注目する小島の能力と無関係ではないだろう。
ゲーム中のアイテムについて言えば、巷のゲームではアイテムというのは案外ぞんざいに扱われているものである。RPGなどに登場する登場する沢山の種類の武器は、キャラがだんだん強くなって行かなければならないという必要を、埋める存在でしかない。アドベンチャーゲームでは、アイテムは結局、何らかの「扉」をあけるための「鍵」でしかない。
MGSでもゲームである以上、たしかにそういう側面はある。しかし、このゲームのアイテムは、ゲーム上の機能以前に「モノ」としての姿、形、イメージのレベルで、制作者から、頬ずりせんばかりに愛情をうけている。多くのアイテムに、それにふさわしい「見せ場」が用意されていることに注目したい。スナイパーライフルには、これを用いた狙撃戦。各種爆弾には、潜入物に不可欠の爆破シーン。タバコを使ったセンサーの回避、そして、もはやメタルギアシリーズのシンボルとも言うべきダンボール箱使用時のバカな姿、etc. これらのシーンでは、物のカッコ良さ(滑稽さ)が最高に発揮されている。
そしてアイテムに限らず、あらゆる「モノ」、「場面」、各敵キャラのジェスチャー、声優の肉声、みな、それ自体で鑑賞可能なレベルまで煮詰められている。ゲームの画面の中に、「しかたなく」存在しているようなものがない、とでも言うか。驚くべき濃厚な世界。この、具体的な物体にこめられたフェティッシュな魂に感応できるかどうかが、このゲームの評価を分けるところのようである。
これらを瑣末なことへのこだわりと侮るべきではない。身の回りのあらゆる物、場面、人々のしぐさや雰囲気にカッコ良さや美しさや、心意気を見出すような、そんな審美力、観察力を持っていたなら、生きていくことはどれほど楽しいだろうか。(実際、そう言った能力に欠けるやつほど、「この世に意味などない」とじまんげに言うのを何度も見てきた。MGSはそういったものからは最も遠いのだ。)
こういった「審美力」は本来、才能と努力なしでは身につけられないものだ。ただ物を見るのにも技術がある。さもなくば写真家などには簡単になれることになろう。MGSに登場するシーンは、確かにまったく新しい創作ではなく、どこかの映画から取ってきたものばかりかもしらんが、被写体を選ぶ目がすでに写真家の技量であるように、小島監督、およびスタッフの「かっこいいもの」を選び収集する能力はすでに、凡人に真似できるレベルではない。そして、MGSは、優れた目の持ち主にしか見えない、全てのものがキラキラして見える世界を、並の審美眼しか持たない私たちにも見えるようにしてくれたのだった。プレイ時間中、数時間の間だけであるが。
これが作家性の表現でなくてなんであろう。ゲームを楽しんでいるだけで、自然とそんな作家の世界を味わうことが出来る。こういう場合、芸術とか娯楽という区別に意味はない。
だがそれでも、MGSを評価しつつ、「あくまでも娯楽として」という但し書きをつけてしまう批評も多いようだ。単なる言葉の定義の問題にも見えるが、やはりこのゲームにある種の物足りなさを感じる向きも有るのだろう。
この点に関しては、私たちが制作者の見ている世界を体感できるのがプレイ中の「数時間だけ」というのがポイントだろう。
ゲーマーも大人になると、「自分がゲームに割いた時間は無駄ではなかった」という確証を得たいもの。不純かも知らんが、やはり大人の時間は限られているのだから。
ゲーム中、テーマを言葉で解りやすく語ってくれれば、何かを理解することができる。たとえ理解できなくとも、丸暗記してしまえば解ったような気がするのが、言葉というものの恐ろしさだ。いずれにせよ、それで何かを得た、何かが変わったという充実感は得られるのだ。
一方、MGSの世界を丸暗記するのは難しい。プレイ中は、プレイヤーは制作者たちの審美力に包まれてあったが、ゲームが終わってしまえば、これを自力で再現することはできない。だからMGSのプレイ前とプレイ後で、あなた自身は何一つ変わらない。新しい理解を得られることもない。ただしこれはこのゲームに内容がないからではない。自分の審美眼、観察力を鍛えることなくして、他力本願で得た楽しさは、ゲームが終われば記憶にとどめてはいられない。わたしが「覚え書き」なる文章を書いたのも、ゲームプレイ時の充実感が、そのままでは自分の中から流れ出していくのを感じたからだった。
「MGSは楽しかったが、あくまでも娯楽だ」
この言葉は、上記のような空しさを感じ取り、表現したものに他ならないのだ。
私は、ゲームに意味を求めることを否定する立場ではない。
だが、答えを急ぐべきではない。すぐに出る答えはニセモノに決まっている。ゲーマーがゲームに費やした時間が無駄だったかどうかは、MGSのようなゲームとの出会いを重ね、じっくりと楽しんでいくくことでしか証明できないことなのだ。その空しさをも引きうけつつ。