Metal gear solid 覚え書き

今回、このゲームのプレイ中、またプレイし終えたときに感じた強い昂揚感を、なんとか文章に書きとめようとしたものである。しかし、どうもすでに「あのかんじ」思い出しにくくなっている。ある意味、短期集中型のゲームかもしれない。
ものを作る人たち、ことに自分が多少はクリエイティブな人間だと自負する人はしばしば、自分の好きなもの、自分が良かれと思って作ったものが、他人にとっては苦痛にしかならないのではないかという不安を抱くものらしい。一方、それならばとて、何とかして自分の世界を多くの人たちに伝わる形にしようとする思考錯誤の中に、表現作品の醍醐味もあるのかもしれないという。
それとは反対に、自分を伝えようなどとは初めから思わず、マーケティングと統計の数字に基づき、自分の思いとは無関係に作品の内容を決定する人たちがいる。そういったものが商業的に成功したりすると、前者の不安はますますつのるというわけだ。
だがそんな中で、まれにどちらでもない人たちがいる。「オレが楽しいんだから、みんなも楽しいはずだ」と明るく信じており、しかも、それをかなりの程度、実現させてしまう、そういうタイプの人たちもいるのだ。
今回私が「メタルギア・ソリッド」から感じたのは、そんな明るい創造性が生み出した、野太く力づよいエンターテイメント性であったのである。
このゲームは、「ゲームくさい」側面が目立つゲームである。古き2D時代の「メタルギア」の後継作ならば当然とも言えるが。たとえば、VR 訓練モードは、このゲームのゲーム的な部分が剥き出しにされたものとして興味深い。グリッド線で仕切られたフィールドが将棋かチェスの盤のように思えてくる。このように「ゲーム」くさい部分を、他と分離して取り出しても楽しめるゲームのほうが珍しいのではないか。「ソリッド」同様、「映画的演出」が注目された「バイオハザード」シリーズではシステム上VRモードのように、演出とゲーム性を分離することは不可能である。
ゲーム中の敵兵の挙動も、大胆(というか、ユーモラスというか)といっていいほどゲーム的である。つまり、兵士の見た目がどれほどリアルであろうと、あくまでも「敵をあらわす記号」として扱われていて、行動のリアリティなどぜんぜん気にされていない。(おや、こんなところにダンボール箱が…ってなぜ気づかん?)ええ、旧作プレイヤーへのサービスってこともありますが、映画ばかりが念頭にあるゲーム製作者であったなら、このような思い切った発想はむしろ難しいのではないか。
このように、異なる要素が、一見、乱雑にぶち込まれているのは、「メタルギア・ソリッド」の構成の特徴でもある。だれもが気がつく、唐突なメタ視点でのお遊び。また、私の場合、このゲームでは何度も爆笑させてもらった。コメディタッチのゲームが多数存在する中、そのようなゲームでは声に出して笑うことなどまずない私なのだが。じっさい、ゲームでこんなに笑ったのはずいぶん久しぶりのように思える。そんな遊び心が、シリアス調のシナリオの中に容赦なく顔を出してくる。
表1:笑いキャラ一覧
芸人 持ちギャグ ツッコミ
リボルバー・オセロット 「すいません、つい…」 とくに拷問ゲームで死んだときのコレが笑えました…。実際に音を聞くと、いたずらがバレて、あせっている子供のような口調がおかしい。「つい」って、大人の言い訳じゃないよなあ。
サイコ・マンティス 「おまえの趣味をあててやろう」
ブラックアウト

彼のギャグはわかりやすいので取り立てて言うことはないが、散々笑わしてくれた直後のシリアストークなど、変幻自在な芸風の広さが魅力だろう。サイコの本来の役目は道化なのだ。
リキッド・スネーク お説教 銀河万丈の大仰な声がギャグではないかと疑われる。さらに、エンディング近く、「スネーク、まだだー」と出てくるところが、やけに楽しそうでこっちまでつられて頬がゆるんでしまう。
★これらの笑いどころは、いずれも声優の演技力に依存するところが大きいため、説明するのが難しいことにことに気づく。しかし、多くの人がいろんなゲームを批評してきたが、「演技力」という言葉が問題になったことが、これまであっただろうか。映画吹き替え系ということもあるが、逆に言えば、巷のしゃべるゲームでは、声優の演出などまったく問題にされていないということが、浮き彫りになってくる。(あと、VRモードの「お疲れ様」も、何度も聞いていると笑えてくるんですが、私がおかしいのでしょうか。)ともかく、ゲームも演出論を論じられる段階に来たってことですよね。
おもうに、このような圧倒的ボリュームと、ごった煮的構成には、「自分たちが面白いと感じたものは、なんでも放り込んでやろう」という貪欲な楽しさへの欲求が感じられる。よく、突然くだらないギャグを思いついてしまい、それを誰かにいわないといられなくなることがあるが(ない?)、このゲームはまさにそんな「思いつき」の詰まったおもちゃ箱だ。プレイ時間は短めなので、時間あたりのネタ濃度は非常に高く、プレイヤーには飽きる暇などない。このプレイ中の疾走感は、特筆すべきところだが、「ノリがコロコロ変わって、ついていけねぇ」といわれる可能性もある。これがこのゲームの秘密を解く鍵になる部分だろう。
実際、おもしろけりゃあ、それが映画から取ってきたものだろうが、ゲームから拝借したものだろうが、お構いなしなんだと思う。映画でも、ゲームでも。そして、国際政治ネタだろうと、イカサマ科学講談だろうと、だ。
ぱっと見にはヘビーな、核兵器問題、遺伝子講談も、だれもが気づくこのゲームの特徴である。そして、これら「社会問題ネタ」が、内容的にはそれほど高度ではないということも。これら、テーマ性の部分については、世の批評家がたっぷりこき下ろしてくれることだろう。
だが、前出のような、このゲームの性質と考え合わせると、これらもお楽しみのための小道具と考えたほうがよさそうだ。
そもそも,スパイもの映画などでは必ず時事的国際情勢ネタが絡んでくるが、もちろん国際問題について啓蒙しているわけではない。登場人物の、個人的かつ超人的活躍が、世界情勢さえも左右する、その痛快さを描くためのものであるわけだ。「ソリッド」においても、同様の効果が期待できるだろう。また、能書き、お説教モード(?)で流れる実写ムービーは、ゲーム全体のビジュアルによいアクセントを与えており、見た目においての効果が高い。
こういう言い方をするのを、小島監督が聞いたら怒るかもしれん。しかし、彼がこう言った重たい問題を扱って、ゲームが説教くささでダメにならずに済むのはなぜか。これは、小島とそのスタッフが知的楽しみとして社会問題を把握するセンスを、無意識的にせよ体得しているということではないか。
「社会問題」を、屈託なく、気負わず、いやらしくない正義感をもって語れるのは、米国産の知性にしばしば見られる特徴のように思えるのだが、どうだろう。不真面目なわけではないのだが、けっして深刻にならない能天気さ、その一方で、ほんとうに解決不能なような哲学的問題には深入りしないという、妙な現実性。
たとえば、利己的遺伝子論のような、自然科学の類推で人間性全体を切るような議論は、(それは俗流の解釈だ!という意見が…。しかし、アメ学は潜在的にそー言う部分がねー)大雑把であり、多くの重要な問題を欠落させるものである。文系の知性が積み重ねてきた、人間社会そのものの直接的な観察の成果も、完全に無視してなりたっている(自分の思想を過去の蓄積、現在の状況のなかで位置付けようとせず、単発的に繰り出してくるのも、米国風の知性の特徴である)。だが、その理論で世界のすべてを説明しようなどと本気で思わない限りは、それなりに真実の一部は含んでいる。この手の知性は、もともと世界のすべてを説明する論理というものを欲しないものらしい。そんな乾いた知性とでもいうようなものが、このゲームの製作者の持ち味なのだろう。外国映画の要素も、そう言ったセンスにつながる道の一つとして使っているようだ。(米国風の思想は、国際社会の勝利者として、自国の文化に疑問を持つ必要がなかった幸福な知性の思想ともいえるが、この種の気楽さは、多くの愛情を得て幸せに育ってきた個人にも見られることがある。筆者などには、とてもうらやましい世界である。)
それはそのままゲームの持ち味でもある。こうして見ると、隠れながら行動し、何が起きたかもわからないままの敵を葬り去ること、また、2D時代の流れを汲む俯瞰的ゲーム性、そういったゲームを突然つきはなした視点から眺める各種のいたずら。すべて、この、知性そのものを楽しもうという「乾いた明るい知性」の立場に近いように思えてくる。
このあたりに、「ソリッド」が、巷の映画志向のゲームとは一線を画する部分がある。世間並みのそれは、内容を掘り下げていくと、「映画的」または「リアル」という言葉にぶち当たる。そこで「あなたにとって『映画的』ってなんですか」と、聞いても、その先には何もない。
一方、「メタルギア・ソリッド」は、製作者がそのセンスにもとづいて、いい、と感じたものをかたっぱしから集めた博物館のようなものである。その映画、ゲーム、社会問題ネタと多岐にわたる品揃えを通じて、強烈なオリジナリティを発揮している。映画的という言葉が逆にゲームを縛っている現状にあって、そんなものはあっさり突き抜けている傑作であった。
参考リンク(無断)
METALGEAR秘密諜報局

Back | Toppage