ゲームおたくのメディア戦術

当初は挑発の意味合いを含んでいたタイトル「コンピューターゲームの黄昏」も、今やただの事実になってしまった。
こんな中、ゲームの黄金時代を知っている人のうち、あの興奮を伝えたいと思う者が出てくるのも当然ではある。そのせいか、最近のゲーム論壇は、サブカル批評系も乱入してきて、さらに混迷を極めている。
しかし、ゲームについて解ってもらおうとするとき、とりあえずメディア上に出たがるというのはいかがなものか。例えばゲーム業界人は、メジャーメディアでのゲームへの無理解に不満を表明しつつも、メディアに露出するチャンスがあると、結構無防備に出演したり文章を上げたりしがちである。
ゲームがメジャーになったらいいなと言うのは、大昔からゲーム界に存在する願望である。仲間が増えるのが嬉しいのはごく普通のことだから、それも当然だろう。だが、多くのゲーマーが、ゲームがメジャーになることイコール、メディアで大きく取り上げられることと考えている。
あなたは、自分の友人なり恋人なり何なりに、ゲームの面白さを説いたり、あるいはゲーム生活を楽しんでいる自分を身をもって示すことによって、彼/彼女をゲーム好きに改宗させる自信があるだろうか?難しいことであり、率直にいって私にその自信ははない。でもだからと言って、マスメディアや広告屋に話題を作ってもらって、仲間を増やそうと言うのは、見当違いだろう。マスメディアが不特定多数に情報を流すことと、現実の具体的な誰かにゲームを解ってもらう事とは、そもそもぜんぜん別のことなのだから。
しかし、ビジネスとは関係ないはずの一般ゲーマーまでもが、ゲームをみんなに解ってもらう=マスメディア進出としかイメージできなかった。それは結局、本当にゲームの楽しさを伝える事ではなかったのだ。その事が今日の、ゲームをどうにも楽しめないという状況を生んだ一因でもあろう。では、なぜそうなってしまうのだろうか。ゲームがメジャーか出来ない理由は、それがマニアックでオタクな情報だからだ、と言う通説をここでは、とりあえずみとめた上で、オタクなものがかつでどのようにして世間の中にあったかを考えてみる。

おたくとマスメディア、その確執の歴史

マスメディアの力がこれほど強大になる以前は、ゲームに限らず、あらゆる趣味における「おたく」は、比較的、非おたくとの共存関係を維持していたように思われる。
20代後半以降の人ならば、ここはひとつ、子供時代の事を思い出してもらいたい。
マニアックな知識が豊富で、そういった知識を媒介にコミュニケーションしたがるタイプ、というのは、昔からいた。子供の頃を思い出してみれば、仲間内に「はかせくん」タイプのやつが一人くらいはいたのではないだろうか。こういった子らは軟弱ゆえに笑われ、いじめられもしただろうが、その一方で遊び仲間内に受け入れられてもいた。なぜなら、彼らは情報通で、面白い話のネタや、新しい遊びのアイデアを提供する存在でもあったからだ。仲間にしておいて損はなかったのだ。
しかし、情報産業が発達し、子供の世界でも、「話題」や「遊びのネタ」は大手メディアが商品として供給するようになると、これら子供社会の小ものしりの役割は無くなっていく。存在価値を奪われた彼らの知識は、もっぱら自己満足のためにしか使い道がなくなったのである。またこれは、おたく少年が、自分の知識を役に立つ、面白いものへと高める技術、また普通の子達が、「ものしり」系のやつをうまくあしらって必要な情報を引き出す技術、それらのための訓練の場が失われたことも意味している。
同様なことは大人の社会でもあったようだ。情報化社会以前は、専門的なメディアの情報は、仲間内の情報通にまずキャッチされ、彼の口から他の人に伝えられる。みんなは情報通=オタクが、ちょっと変わり者だと知っているので、その分自分なりに情報を修正した上でこれを利用する。そんな中で、小グループごとに多彩な見解が形成されていたものらしい。
小林秀雄がその昔指摘していたことだが、「うちの人は変わり者だから」というような決まり文句の中には、変人やおたくに対する呆れをあらわすと同時に、そういう連中をありのままに受け入れようという愛情も含まれている。そんなおたくと非おたくの関係も以前はあったのだろう。まあ昔は、ふつうの人たちも、「普通」であることに自信を持っていたので、あえてオタクを叩くまでもなかったのだろう。村に2、3人きちがいや変人がいたからと言って、人々の日常が揺らぐ事はない、というわけだ。
しかし、現在ではこういった「情報の小コミュニティ」は機能しておらず、メディアは人々の孤独な心に直接情報を売りつけることによって、大きな利益を上げることが出来るのである。
これは、大企業の進出によって中小の商店などがつぶれたり、産業の機械化によって、誇り高い熟練職工が職をうしなうということと、同じ構造である。おたくとマスメディアは実は同業者なのであり、敗者はおたくのほうである。 かつて産業資本主義は植民地に(武力に保証されつつ)大量の商品を投入し、現地の産業とそれに付随する文化を破壊し、そのためますます経済的に依存せざるを得ないという状況を作り出して、大きな利益を上げた。これらは「自由貿易」の名のもとに正当化された。
同様に、情報資本は大量の情報商品をもって、人々から自分自身を語るためのボキャブラリィをうばい、消費者はそれによって生じる、自分を伝えられないと言う孤独を癒すために、ますます多くの情報を買い求めるしかない、という状況を作り出した。そして、それに異を唱えることは、「言論の自由」を侵害することとして、非難されるのである。
だが、世界の経済がさらに発展するためには、人の心の中に市場を切り開いていくしかない。
そして、いまやゲームはそんな情報資本から、人の心を植民地化するための最終兵器となることを期待されているのだ。そうなってしまう事を、多くの純情なゲーマーが、「メディアに出れば、ゲームの理解者が増えるはずだ」という考えのもとに、後押ししてきたのである。

インタラクティブ幻想に気をつけろ

なにやら壮絶な言い草になってしまったが、わたしもあなたも、こういった情報化社会の実態を批判する権利などないし、わたしも批判をしたわけではない。
産業資本主義が、多くの犠牲も生んだとはいえ、人々の生活を便利にし、ある種の肉体労働から開放したように、情報化社会は人々を「考える」という労苦から開放してくれるのだ。これは多くの人が真に待ち望んでいる事であり、止める事は出来ない。完全に自動化された情報化社会では人々はなにも考えなくていいのだ。
たとえばあなたはゲームが教育上よくないとかいう俗説が、大手メディア上に乗っているのを見て憤慨するかもしれないが、それを書いた記者にとっては、それは毎日のルーチンワークの一部に過ぎない。つまりそう書けば記事全体が「まとまる」と経験上知っているから、そう書いているのであって、とくに思想的な部分があるわけではない。まあ、大げさに言えば、ぐちぐち「ものを考える」ような軟弱なやつが、生き馬の目を抜くハードなメディア業界でやっていけるわけもない。かれらは人の心の中にあらたな植民地を開き、経済を発展させるために戦う戦士なのだ、ためらっている暇はない。だから、そういうのに目くじらたてても仕方ないって事ですよね。
一方、コンピューターやインターネットはそのインタラクティブ性が注目され、多くの人が情報の送り手として創造性を発揮するもののように語られるが、それは半分しか当たっていない。
メディアのインタラクティブ性というのは、ハードウェアの特性とはあまり関係がない。情報は、それを集め、編集する資本と人材が集中しているところから、そうでないところに向かって流れる。経済的な要因が第一なのである。
つまり、ネットワークが双方向的なのは、いまだ資本と人材の集中が起こっていないからであり、ネット自体がそういう特性を持っているのではない。将来ネット上のメディアビジネスが盛んになったとすると、その時ネット上を流れるのはたくさん金をかけて作られたコンテンツであり、ネットの双方向性は、課金管理や商品の選択のみに使われるようになるだろう。そうでなきゃ、商売になんかならないよ。そして、個人のホームページなど誰も見なくなり、ホームページ公開のサービスのような、採算の取れないことをする企業はなくなるかもしれない。
まあそうなった場合、うちのページなんかは、あらたな場所をもとめて移動していくだけの事だけれど。

ただしい「おたく仲間」をめざして

かように悲観的でヒステリックとさえ言える内容を述べてきたのも、とりあえずメディアやジャーナリズムそれ自体は、銀行や商社とおなじ一つのビジネスに過ぎず、特別高級な商売ではない、そこに露出することと「理解してもらう事」は必ずしも関係はない、という事を言いたかっただけである。べつに私はアングラ志向ではないので、具体的な目的意識と計算があるなら、メディアもどんどん利用すればいい。情報ビジネスマンも、利害においてはゲーマーの敵でも、個人としてはいい奴かもしれず、友人にもなれよう。ちっぽけな例だが、もしうちのページの紹介記事を雑誌に載せてくれるとしたら、喜んでOKするしなあ。来客が増えれば賛同者が出る割合も増えるのは計算上明らかだから。数は結構ものを言うよね、この場合。
だが、「もっとみんなにゲームの事わかってほしいな」という、あなたやわたしの素人臭い純情な期待に答えるものは、やはりメジャーメディア、殊にジャーナリズム世界にはない。それは基本的に、一対一、または比較的少ない人数で語り合う言葉の中にあるんだ。ゲーム仲間どうしの語らいを、もっと充実した、機知に富んだ面白いものに変えていく事が出来たら。そうして人にその語らいに加わりたいと思わせる事が出来たら。それはゲームが解ってもらえたといえるだろう。そしてそれは情報化社会が奪った、「情報の小コミュニティ」の復興という見果てぬ夢にもつながっている。
これは難しい事だろう。だが、私はかつて、黎明期のゲームが上記のようなメディアのシステムに、一瞬だが風穴を開けるところを見てしまった。あの興奮を体験してしまったら、そうやすやすと情報化社会に適応は出来ないんだよ。メディアの無神経な言葉に対抗する方法は、自分もメディアに露出して声高に叫ぶ事ばかりではない。メディアに露出しない部分の言葉を充実させていく事で、「メディアなんて、世界のほんの一部なんだよ」と知る事が重要なんだが、まあそれは自分もぜんぜんうまくいってなくて、あくまで努力目標です。

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