ゲーム作家に自己表現は可能か:ルナティックドーンの場合

基本的に遊びであり、楽しくなければならないゲームに「魂の表現」たることは可能なのか?
そんなことについて考えてみた
ルナティック・ドーンシリーズは、厳密にはRPGとはいえません。
これは「RPGをシミュレートするゲーム」であり、さらに言えば「RPGのパロディ」ともいえます。
いや、これは、ゲームをより深く楽しむために、重要なポイントといえますよ。
パロディは元ネタを知っていないと十分に楽しめません。ルナドンも、RPG経験者でないと、楽しさ半減します。 ルナドンはRPGに特有の「小道具」がたくさん盛り込まれています。
「人物の救出」「退治」などの仕事は、RPG経験者にとっては、「ああいかにもRPG的な…」と思いながら、想像をふくらます鍵となるものです。その他にも、「パーティ」という考え方や、「仲間との旅」というテーマ(見知らぬ地の旅というテーマは、The Book of the Futures以降はなくなってしまった感じですが)は、RPG的な想像力(あるんだよ、そーいうのが)を刺激する仕組みになっています。
しかし、全くのRPG未経験者がこのゲームをプレイしたとしたら、このゲームは、数字と反復の支配する冷たい世界と見えるでしょう。RPG体験がないと、このゲームの冷たい骨組みに肉付けをすることができない。このゲームは、プレイヤーにある種の「教養」を要求しているように思えます。そこが「パロディ」たるゆえんです。
こうしてみると、このゲームのデザイナーは、RPGというものを、高いところから見下ろして、「RPGってこういうもんだよね」とクールに分析し、それを数字で再現しようとしていることが解ります(そこが「シミュレーション」たるゆえんです)。そしてルナドンのプレイヤーも実は、RPGを楽しむのではなく、「そうそう、RPGってこういもんだよ」と無意識のうちに返事をし、そんな「ゲームとの対話」を楽しんでいるのです。
つまり、あなたがルナティックドーンが大好きだとしたら、このゲームはすでにあなたにとって単なるおもちゃではなく、作者の精神が込められた表現作品であり、その精神に触れることを「楽しい」と感じているはずなのです、本当は。(って勝手に決め付けんなよー)
パロディが成立するようになれば文化として一人前、しかし、それは「盛りを過ぎた」ともいえるわけで、難しいですなあ。

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