「影牢〜刻命館真章」
心理学ではなく、ゲームシステムによって描かれる狂気
前から筆者は人目を引きやすい異常心理を強調した作品や、偽悪趣味(たとえば、人間を悪く書けば書くほど、現実的だと錯覚するという傾向)に走った作品にはわりと否定的な態度をとってきた。
ゲームに限らず、小説からテレビドラマに至るまで、そういう異常心理ものは近年多いので、いいかげん飽きている人もいるかも知れない。
それで、「影牢〜刻命館真章」は、罪も無い(ことが多い)人々を、たいした理由も無く殺して楽しむというアレなゲーム内容から、一見そういう作品の一種のようにも見えてしまう。
しかし、私はこのゲームは、その表現技法において、よくある偽悪&サイコ系とは一線を画すものだと思うのだ。
そんなわけで、いつもどおりサイコ系の悪口をいいつつ、「影牢」をホメようってわけです。
「影牢」で、プレイヤーが侵入者を殺害する手段は各種のトラップなのだが、これらのトラップは大掛りに機械的なものが多く、しかもやけに回りくどい仕掛けが目立つのであった。これらを組み合わせて侵入者を死に導くことが、「影牢」のゲーム性の根幹となる。
さて、仕掛けたトラップの組み合わせが完璧に動作したときには、残酷なゲーム内容にもかかわらず、思わず笑ってしまったプレイヤーもいたのではないかと思う。まず、一人殺すのに、仕掛けが大仰すぎるし、トラップからトラップへとボールのように飛ばされていく犠牲者の姿は、残酷と言うより、ドタバタ喜劇の登場人物の無力さを連想させる。(まあ発売当事のCMは、このゲームが実は喜劇であることを如実に語っていたが)
この点、「影牢」のトラップは、自動化された一連のシステムという雰囲気があると言えそうだ(そのためにはプレイヤーがうまく操る必要があるが)。
また、「影牢」は実質的に肩越し一人称視点のゲームだが、よく考えてみると、ワナを作動させることなど、遠く離れた所からやってもよさそうなものでもあり、プレイヤーがマップ内にいなければならない必然性が他のゲームに比べてうすい(「刻命館」シリーズと似たような題材をあつかった洋モノゲーム、「Dungeon
Keeper」シリーズなどでは、プレイヤーはゲーム画面中には存在しないですね)。いちおうゲーム中プレイヤーキャラの位置には、死角の問題とか、敵を誘導したりする意味があるが、自分には指一本触れさせずに、タイミングよく計画どおりに敵をワナにはめれば、自キャラの身体的な存在感はかなりうすくなっていくのだ。そう、自分がトラップの一部になってしまうみたいだ。獲得Arkの計算方法も、そのようなシステマティックでスマートな殺しを奨励するように設計されており、またプレイヤーにも、そのような「完璧な」プレイに審美的な満足感をおぼえる人は多いのではないか?
つまり、このゲームはプレイヤーに一貫して、自動化されたトラップシステムと一体となることを要求してくるのだった。
自動化されたもの、常に確実で、変化しないもの…つまり「モノ」のようになってしまいたいという気分、このゲームにはそういう気分を表現するための仕掛けが満載されているのだった。また、「影牢」にサディスティックな性質を見出すプレイヤーもいるだろうが、そもそもSMというものが、力による支配/被支配という単純で確実な関係をつうじて、不確実で予想のつかない自由意志というものから一時的に開放されたいという気持ちとすれば、それも大いに関係の有る話だ。
このゲームのストーリーの部分が不死をめぐるものであるのも、題材の選択として統一性があり、ゲームシステムと見事に整合している。歳をとらないというのがまさに「モノ」の性質であり、永遠の寿命ゆえに停滞した刻人社会の設定などを思えば、永遠の命をもとめて進入してきた敵が、殺人装置にモノのように手玉にとられて死んでいくのは、きつい皮肉であった。プレイヤーキャラのデフォルト名「ミレニア」もこのゲームでのプレイヤーの立場を端的に物語る。とくに皆殺しエンディングでの彼女は、トラップと一心同体となることで、刻人以上にモノ=不死に近付いてしまったのだろう。
もしこのゲームが好きになれないとすれば、このあまりに統一されたスキのない世界観になじめない場合か。
このように、「影牢」では、いささか病的で異常な「モノ=不死」への欲求が題材として巧みに利用されているが、一方、巷にあふれる異常心理系エンターテイメントでは、むしろモノ(形式的なもの)が軽視されすぎているように思われる。そのあたりにこそ、このゲームが平凡な偽悪ゲームと異なる理由もある。
よくあるパターンは、最近多い「トラウマ譚」もそうだが、最初に、「なぜそんな異常者や悪人になったのか」が最初に決定され、人物造形がすべてその原因から演繹的に説明されるのである。その一方で、心理学の原理から演繹するには些末すぎる日常の描写はおざなりになるんだけど。
学問はその建前上、決められた手順を踏めば誰もがおなじ結論に到達するように組立られるべきものとされており、臨床心理学や精神分析もまた然り (まあ本当はそうでもないんだけどさ)
。
心理学は本来個別科学であり、本当に理系的に厳密であろうとするなら、小説やTVドラマや人生相談に利用できるものではない。
にもかかわらず、これらの学問の枠組みがストーリーテリングの世界に乱用されるようになったのは、心理学的人間像が、学問として、一度決められた手順を覚えれば誰にでもコピー可能だという事情にもよる。大量生産には実に好都合。
なんだか、巷をさわがす殺人少年の、ガキの頃の作文までが事件の遠因としてメディアで分析される一方で、件の少年と差しむかいで雑談の相手になってやろうという奴はいない(無理だけど)という状況にも似てるが…
心理学中心のストーリーテリングは、人間の意思を尊重する姿勢のように見せかけながら、実際には周囲のモノや他人との多彩な相互作用をつうじて自分(自分=心理ではない!)と他人とを同時にかたちづくっていく過程を見えなくし、逆に人間を型にはめてしまう。
だが、それとは別の人間の見かたもあるはず。
このゲームで、「ミレニアはなぜ人を殺したのか」を問うことにはあまり意味がないだろう。しかしそれを強いていうならば、「影牢」の世界がモノになりたいという欲求を喚起するような演出、世界観によって隅々まで統一されており、彼女はそのような世界の住人として、そこに溶け込んでいたからだ、ということになるだろう。
本来、文学的な人間観というのは、その人間の言動を観察描写し、そこに見られるパターンやスタイルをもってその人のアイデンティティとするというものであったはずだ。外側から詰めていく、帰納的人間観。そして、人間に見られる多彩なパターンを記憶し、自由に組立られるようになること、本来それが作家の芸だったはずだ。即興演奏家の自由な演奏が、指グセになるまで訓練された多くのパターンによるように。心理学の隆盛は、一方ではそのような技術力の低下を意味する。
その点、このゲームはゲーム的楽しさ、ストーリー設定、ヴィジュアル面に統一性あるカタチをもち、ヒロインの異常な行動さえも、そのなかで的確にいちづけられている。
だからこそ、ヒロインの心理など改めて説明する必要はなかったのだ。彼女が操るトラップのかもしだす「モノ」としての魅力が全てを語っている。
またこのゲームでは、やられ役の面々に着けられた短いプロフィール文も目立たないながら楽しい。心理分析にはしらず、彼等の目標やいつもの行動などが簡潔に述べられているだけなのだが、それがいきいきした人間像を連想させるよう練られていて、彼らを殺すことの冷酷さをひきたてる。
「影牢」をプレイするにあたっては、異常な設定に偽悪的にニンマリするのではなく、心理学的解説をむやみに用いずに異常なストーリーを描ききった製作者の表現力を味わいつつプレイするのが一番楽しいとおもう。