EVE burst error :おたく文化とハードボイルドの奇妙な関係

「かっこいいおたく」は存在可能か?

「モノへのこだわり」はハードボイルドを構成する重要な要素の一つだ。小説文体上のハードボイルドの祖であるヘミングウェイは酒と酒場にこだわった。もはや、言葉は信用できない。唯一人と人とのつながりがあるとすれば、モノへのこだわりとスタイルを持っている者同士の、直感的な共感のようなもの。そういう悲壮なロマンチシズムがハードボイルドのなかには存在している。
EVE burst errorの主人公たちには、銃への強いこだわりがある。そこには、ハードボイルド的な様式が確かに影響している。銃へのこだわりから、相手がただ者ではないと互いに理解するという場面もいくつもある。だが一方で「いまうんちくをたれている場合か?銃は黙って撃とうぜ…」と思わせる部分もたくさんある。ハードボイルドというより、ガンマニアの会話にちかい。
そもそも人間はどこまでも孤独だという非情な認識がハードボイルドの心ならば、こういう会話はそれとは異質だ。このゲームでは、ハードボイルドの小道具の中に、オタクの魂が注がれている。かっこよさげなハードボイルドと、かっこ悪そうなおたくとの共存。この奇妙な関係は、どうして起こったのか?
そもそも「かっこいい」ということはどういう事か。
それは、「意識的でなく、自然だ」ということに集約される。
だから、かっこよさの基本は、うまれたときからかっこいい事だ。それは貴族のかっこよさといってもいい。小さいときから洗練されたものに囲まれていたため、特に意識しなくても、気が利いていて、それでいて自然な口調、身のこなし、ファッションセンスなどを身につけていくことができた者、そういうやつだけが持っているカッコ良さだ。
一方、「努力して格好よくなる」というのは、基本的には不可能である。努力というのはこの世でもっとも意識的で、格好悪いことだから。東京に出てきたばかりの人が、無理をして洗練された都会のスタイルを真似ようとし、意識のしすぎでますますみっともなくなるという、あれだ。「人間は決して自分の生まれを忘れてはいけない」という教訓は、こういった体験から生まれてくるものだろう。
それでも、意識的に自分だけの自然なスタイルを作り出そうという人々はいる。努力の跡を消す努力をし、その努力をまた消す努力をする。「体得」していくのだ。この場合、「努力の跡=ちょっとみっともない部分」がどうしてもゼロにはならないが、かなりいい感じになれるひともいる。これは貴族のかっこよさにたいして、第二のかっこよさと呼んでもいいだろう。わたし個人としては、後者のほう、どこかに弱点を秘めたかっこよさの持ち主のほうが、好きだったりする。(そういうひとって、いるよね?)
ハードボイルドとは、じつは後者のかっこよさなのだろうと思っている。アメリカにはヨーロッパの洗練された伝統貴族文化はなく、すべてを一から「意識的に」作り出すしかなかった。もともとのアメリカは意識的でかっこ悪い世界だったのだろう。だがその「なにもない」ということを逆手に取り、「おれたちは何の価値観もナシで生きていける」というタフネスと、ときおりみせる弱さ=かっこわるさ、それをベースにつくられたスタイルが、ハードボイルドなのだ。
おたくは世間からどう見られるかに無関心だといわれているが、その実、おたくほど自意識過剰な存在はなかったりもする。そこに、おたく文化とハードボイルドとが結びついた理由があるようだ。意識的であることを逆手にとってかっこよくなる方法を、ハードボイルドから借りようとしたのだ。わたしは、EVE burst errorのかくされたテーマは、「『かっこいいおたく』はありえるか」ではなかったのかという視点から、このゲームを楽しむことを提案する。実際には、おたく文化とハードボイルドの隔たりは大きい。覚悟の仕方がちがうというか。しかし一つの試みとして面白味があるようだ。
パソコンのエロゲーというマイナーな出発点を原点として保持しつつ、独自のスタイルを打ちたてようというこのゲームの試みは、映画などのメジャーなメディアのスタイルに始めから依存しようとする最近のゲームの潮流のなかで、孤軍奮闘の気配を見せている。古くからのゲームおたくとしては、感慨深いものがある。

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