ゲームマニアとしては、「ライトユーザーのこともちったあ考えろ」とは年中浴びせられている批判の一つである。これ自体は当然聞くべき意見であるが、この「ライトユーザー」という言葉には、私はときどき当惑させられる。「マニアではない」という否定的な形でしか定義されない言葉なので、実際にライトユーザーという一枚岩の層があるわけではないわけで、当然対処法も異なるわけで。
実際、ゲームをあまりしない人がゲーマーに向ける視線というのにもいろいろある。
私がゲーム少年だったころ、周囲からもっとも多く受けた注意は、「子供の癖に家に閉じこもってごにょごにょして…」というものだったから、世間のゲームに対する視線というのは、だいたいそんなものだろうと思っていたのだった。私の育った世界では、たとえば本を読んだりすることも、外で元気よく遊ばないという点では、必ずしもいい印象はなかったので、まあソレに類することであろうと。
しかし、わたしも人並みに大学に通ってみるようになると、周囲のゲームに対する否定的な視線も、性質が微妙に変化していることに気づく。つまりゲームが「文化的に価値がない」「論じるに値しない」という軽蔑にである。
この変化は、当初大学という場所の性質によるものかとも思ったが、より正確には、私が労働者階級の家出身であるのに対して、自分の通っていた大学の学生は中流階級の人間が多かったという、身もふたもない事実によるということに、後になって気がついた。日本では、階級の存在に気づくのにはそれなりの観察力が必要なのである。わが国は、偏差値競争などのように量的な基準で人間を分けることはあっても、質的に断絶した層に分けるということをしない。だが、だからこそ、今回はあえて「階級」というえぐい視点を用い、物理的事情が人間の精神を大きく規定するのだということを強調してみたいのだ。
私の育ちは労働者階級(こういった古臭いダサい表現がイヤなら、サラリーマン以外の一般人、と定義してもよい…親が自営業者や職工や職人なら、あなたもたぶん労働者階級、真の「庶民」出身なのだ。ホワイトカラーであるリーマンはいちおうここでは下層中流とする。この違いは結構大きいのだ)、といっても、いわゆる「手に職」があって経済的には比較的安定している層であった。わたしの子供のころの遊び友達も似たような親の家に生まれたものが自然と多かったが、彼らの家に遊びに行くと、だいたい家に字だけの本などあまりなく、(あるとすれば料理の本とかダイエットの本とか…)いっぽう室内には観光地の記念品とか、地元の市会議員のポスターとか、皆勤賞の賞状とか、趣味がいいとはいえない物が飾ってあった(俺んちも似たようなもんだったが)。収入はそこそこでも、そんな文化的側面で、私たちが労働者階級の子であることを窺い知ることができた。
またこれらの友人たちの将来のビジョンも、中流家庭の子女のそれとは大きく異なるものであり、私のガキのころの仲間のうちで、もっとも想像力に恵まれた者が見る夢は、「専門技術」を身につけることで、そこそこ安定した、マイペースの生活を送ることであり、マスコミ人やクリエイターや、世界をまたにかけるビジネスマンになることでは決してなかった。「技師」「腕の立つ職人」は労働者階級の世間では最も理想的な人物像であり、(同時に彼らにとって最も現実味のある「成功への道」だ)私は(こういった生まれとしては)なかなか学業成績が良かったため、親は、私を理工系の技術者にすることを夢見たようだ。この期待は見事に裏切られたが。
いずれにせよ、わたしは性格上の問題もありこのような「健全な庶民」の仲間にはうまく入れなかったところがあるんで、本当はえらそうに彼らを代弁できる筋合いではなかったりもする。それに、私が住んでいた地域も、私が思春期を迎えるころには、だいぶ中流化してきて、あてのない受験勉強とかみんなするようになってきたのよ。バブルだ。結局わたしは(バブルで親が金余っていたのをよいことに)某有名私大の文学部に通い、そこで「中流階級」の生態や思考様式についていろいろ学んだ。
学術系のゲーム論客が、「ゲームをもっと一般の人に開かれたものにしなければならない」と口にするとき、それは「一般的な批評や学問の言葉で語られなければならない」を意味する場合が多い。しかし私の両親やガキの時分の友人たちなら、そのように理論化されたゲームは、今よりももっと遠いものに感じられるだろう(私がやってることも、人のことは言えんが、せめて自覚的でありたいと思う)。だから、私はある時期、この手の学術系の人たちの見解は単なる自己満足の詭弁であると思ってきた。そういう面もたしかにあるが、しかしソレだけで全てを説明することもできないらしい。わたし自身自分がおたくであることには確固たる自信があるが(←なくてよい)、学術系のオタクに対しては、私は自分がその仲間だと感じることができない部分があった。それはやはり「階級の違い」というものがあったのかもしれない。
「文化的に価値がある」と証明されてはじめてそれを受け入れるという感覚が、ごく一般的に存在している中流層は、階級意識が希薄といわれるわが国にもいちおう確かに存在しているようだ。それが仮に俗物根性に基づくものであったとしても、子供のころからそういう人々の中で育ってきたゲーマーにしてみれば「ゲームを学問的に裏付けること」が「ゲームを一般に開かれたものにすること」とイコールであるのは当然である。彼らにとっては、「ゲーマー以外」とは「ゲームをあまりしない教養人」のことだったのだ。彼らの立場では、場合によっては、単なる手段と割り切ってでも、ゲームの学術化をしなければならないだろう。
しかし、そうなるとゲーマーの階級分布について若干興味が沸いてくる。ゲーマーの好みのゲームジャンル、ゲームに費やす時間と金、(以下、本人および親の)職業、年収、学歴、居住地などには何らかの相関関係はあるのか?その辺についての資料があるなら知りたいものだ。
しかし、私にとって、このような社会学的な調査は、興味があるといっても、自分でやるほどでもない。そこで、ここでは自分の見聞きしたものについて語ろう。
コンピューターゲームとテクノロジーは切っても切れない関係にあるが、本来テクノロジーのもたらす便利さというのは、労働者階級と下層中流のためのものだったように思う。便利なものというのはダサいのだ。手間がかかり無駄なものに金と時間を使うのが中流以上の証である。
たとえば、電気炊飯器が登場したとき、共働きのいそがしい労働者家庭の主婦には憧れの的だったが、使用人を置いていたり、主婦が悠々自適の生活が出来るような家庭から見れば、「食事を機械に作らせる」というのはおぞましいことに思えただろう。これらの便利な電化製品は、高度成長期の日本の中流幻想を牽引した重要アイテムであるが、「便利」ということ自体が、庶民的なものであり、それゆえこれらのアイテムがあくまでも中流より下のクラスに中流幻想を売るものであったことは多くの人が指摘するところである。
私はパソコンゲームからこの世界に入ったため、どうしてもパソコンをネタにしてしまうのだが、登場した当時、パソコンはこの構図には当てはまらないものだった。まず、この道具はあきらかにテクノロジーの塊だったが、まったく何の「便利さ」も供さないようなものだった。
そのくせ、使うのには結構訓練がいる。労働者階級の常識からすれば、当時パソコンは「なにが面白いの?」というしかないものだった。ではパソコンは中流的だったのか、というと、当時においてはもちろん違う。「パソコン/インターネットが世界をかえる」などの識者のお墨付きもまだなかった。そういう出所のあやしい物が中流的であるわけがない。高価なステレオ一式でジャズでも聞く分には、おなじメカでも中流的なんだが。
ましてや、この機械でゲームを動かすとなれば、何をかいわんやである。そしてガキのころの私は、この所属階級不明な「パソゲー」を仲間内に紹介して回る役目を周囲の迷惑もかえりみず演じ、「おたく」道をひた走ったのである。
しかし、この初期パソコンゲームの所属階級のわからなさ加減は、かならずしもいいことだとは思わない。階級が不明なことと、階級から自由であることとは違う。
そもそも人は階級から完全に自由になることは出来ない。なぜなら、階級は経済力の壁ではなく、経済力の差を主な理由として生じる文化的、精神的な壁だからだ。むしろ所属階級はその人間の人格と個性の一部なのである。だから、自分の「生まれ」「分限」を自覚するところから、はじめなければならない。
それゆえに、パソコンゲームのうわついた無階級性に端を発する自宅系(=非ゲーセン)思考型ゲームの流れが、結局どこに着地したのかは、私にとって興味のある問題なのである。その答えによって、「ライトユーザーに開かれたゲーム(およびゲーム論)」の意味も、多少変わってくることになる。