キャプテン・ラブ メモ2

このゲームのパロディな部分というのは、非常にわかりやすい部分でもあるので、特に分析する意味はないかな、と思っていたが、実は人によってゲーム中のパロディの解釈もずいぶん違うらしい。ならば、少し細かくパロディの種明かしをしてみる。すでにわきまえてる方は笑って流し読みして下さい。
今回は、ラブラブ党についてである。
「愛の共産化」を目指すこの滑稽な集団は、共産主義運動パロディとして極めて精緻な出来になっている。
「愛の共産化」という言葉自体が笑えるが、これが笑えるのは、愛情は財産などと違って気持ちのもちようだという常識があるからだろう。
しかし、ここで本来の共産主義に対する古典的自由主義者の反論が、「財力だって気持ちの持ちようだ、っていうかそんな活動してる間に金持ちになる努力すれば?」というものだった(おおざっぱに言えばね…)事を思い出そう。両者の対応関係を考えれば、このパロディがいかに込み入ったものであるか理解できよう。ラブラブ党を笑っているプレイヤー自身も、古典的自由主義者のパロディとしてこの笑いに組み込まれているのだ。「もしかしたら、愛を得る者と得られない物との間の壁は、財力の場合以上かもしれないぜ…」
大きな理念を追い求める者が、自分の足元を見失うというのはよくある話だが、「キャプテン・ラヴ」でもそのあたりはわきまえたもので、世界人類を愛をめぐる弱肉強食から開放せんとするラブラブ党員も、もとを正せば個人的な恋愛に敗れ傷ついた人々であることが執拗に暴かれ、そのギャップが笑いを誘う。ラブラブ党は、その指導者もまた、愛の共産化といいながら、その思想の本音は「自分の娘をほかの男に取られるのイヤ」というナサケナイものであったことがバラされるという形で、敗北していくのであった。
「キャプテン・ラヴ」は、いろいろなもののパロディで成り立っているけど、こうしてみると、私にとってはこのゲーム「転向文学」のパロディとして見ることが、一番面白く感じられるのである。
厳密な意味で転向文学というと、治安維持法下の弾圧に節を屈した共産主義文学者(なぜかわが国の共産主義運動は、文学と腐れ縁的な関係を持っている)の自白めいたものだが、どんな形にせよ運動を裏切った身としては、運動の暗部にも自然と目がいくようになるし、自分の正当性を証明するためにも、運動の偽善性とは全面的に対決せざるを得ない。そこに論理としての思想と人間性の間の問題を追及する文学的潮流がうまれる。それは、戦後の学生運動の挫折の記録や、現代のカルト宗教脱会者の手記にいたるまで続いている一つの様式である。またそうでなくとも、自分の知性に自負を持つような青年が、背伸びして理論にかぶれて失敗するという、より一般的な青春の一幕の物語としても読めたりする。
主人公がラブラブ党からの転向者(笑)でなければ、このゲームのパロディ性は成り立たなかっただろう。ふつうだったらラブラブ党のような怪しい団体は無視してしまうのが利口だが、転向者にとってはそうもいかない。むかしの自分と決別するためにも、戦わざるを得ないんだが、やっきになって戦っている姿は、無関係を決め込んでいる第三者から見ればどっちも同じようにしか見えないという転向者特有のジレンマというものがあって、そのあたりもこのゲーム、きっちり表現されている。「往来で愛を語る」という敵と同じ手段で戦わなければならないという形で。
しかしこういった転向文学パロディとしての見方もなかなか一筋縄でいかない。
このゲームは同時に「抜忍として追手にねらわれる」とか「悪の組織に改造人間にされるが、逆にその能力を利用して戦う」といったわが国のサブカルチャーの伝統をふまえたパロディーでもあるからである。
というか、そういったサブカルにも、転向もののエッセンスが含まれており、(あるいはその逆)それがゲーム製作者の慧眼によって一つの作品に結晶したということかもしれんが、プレイヤーとしては、どのようなレベルでパロディを理解することも可能なのである。
つまり、
単なるバカ話と見てして大笑いしようと、
オタク向けのマニアックな知識に基づく佳作と理解してニヤリと笑おうと、
その背後に思想性を読んでお茶を濁そうと、
どう読んでも作品全体の流れが損なわれるわけではない。どれもそれぞれに楽しめるという構造になっているのだ。
この懐深さ、製作者がどんなことを考えて作り出したのか、本当のところは推し量りがたいが、
「たとえ完全に理解はしてもらえなくても、楽しんでもらえればそれでよし」
と考えていたのなら、それはなんとカッコイイ、だが孤独な覚悟の仕方だろう。
このゲームのパロディ性には、そんな孤独を直視する気概を感じる。だがそれは、前節で述べたヒロイン愛美の孤独を内に秘めた冗談、いや、およそすべての登場人物が軽妙な会話の中に隠している暗さに通じている。そしてそんなゲーム全体の表現様式が、「人は理念とどのように付き合っていくべきか」という転向文学の問いにたいする回答となっている。「そんなに焦って答えを出さなくてもいいんじゃない?答えを求めていたこと自体を忘れてしまうのもまずいけど。」
これらのことが一つに重なって立体的に見えたとき、私は背筋が震えるのを禁じえないのである。

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