本来、ギャグの解説をするというのはつまらないことで、説明しないでわかってこそギャグやパロディーの意味もあるというもの。「キャプテン・ラヴ」に関して、余計な批評なりコメントを加えることが難ししいのは、そのへんも一つの理由だろう。ボケに対するツッコミ、というか、笑いには笑いで答えるのが正しいようにも思える。 しかし、ゲームのヒロイン永堀愛美の冗談に大マジメにこたえる主人公の(ある種の)野暮が、物語の端緒を開いたように、このゲームの笑いについて、ちょっと批評を加えることが何かを生み出すかもしれない。ここでは仮にそう信じてみることにしよう。まあそんな方法でしか、私にはこのゲームに対して賛辞を送ることができないということなんだが。
というか、「冗談にまぎれて本音を言うくらいしか自分を守る術がない」という愛美は、
(まあ、そもそも人から傷つけられるような繊細な本音などないだけの人も多いが)
このゲームにおいて、笑いの部分と比較的マジメな部分を融合させる要となっているように思えるのだ。だからこそ、「キャプテン・ラヴ」のメインのヒロインは彼女でなければならないし、物語は、永堀愛美の物語として閉じなければならなかった。 そしてそれゆえに、このゲームの笑いについて語ろうとする私の作業も、永堀愛美というキャラについて語ることから始まるのである。
さて、このゲームでは、他に骨のある凛としたお姉さんが多数登場するということもあり、あまり愛美という人物に魅力を感じない、というプレイヤーの声も一部で聞かれた。しかしそれでは、シナリオの構造上、ゲームの面白さも半減。ここはひとつ、彼女の魅力を最大限に引き出すようなゲームの解釈をでっちあげてみよう、という趣向でいってみよう。
オープニングでの愛美さんですが、あのようにつばの広い帽子というものは、いまどきかぶるものなのでしょうか?いや、私はそういうことは解らないけど、なんか当たり前のように着こなしてるんで。でもやっぱり、並のセンスじゃできないのでは…?絵だからどうとでも描けるという意見もあるだろうが、それならそれで、うまく描けている絵だと思う。
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うかつな人なら、この場面で愛美に「かわいい!」などど言わせてしまいそうだが、ここで彼女が思ったことは「これをかぶったらウケる!」以外にはありえないだろう。ええ、彼女はそういう人ですが、私としてはそんな女は結構好きだということに気づかされたり。
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「自由闊達な女」(いや、男でもいいが)というのが、しばしばたった一つのパターンしか許されていない(仕事が出来て、ものをはっきり言う、かつ、恋愛について奔放、など)のに対して、「お坊ちゃん、お嬢様育ち」が一人一人非常に違っているという逆説は、現実においてもあることかもしれない。 このゲームに登場する女性キャラは皆、じぶんの「キャラ立て(?)」に関して、非常に自覚的である。まあだれだって、周囲の環境への適応の一環として、自分の性格を自分でデザインしていくのだけれど、ただ男の場合、いつのまにか、それが生まれ持った性格だと思いこんでしまうケースが多いようだ。(もっとも、これはしばらく前までの傾向で、近年では、女も男と同じくらいバカになってしまったので…) 永堀愛美ももちろん例外ではないわけだけど。私は彼女の東京タワーのコレクションを見ると、考えさせられるものがある。彼女がどのようにしてこの世界に適応してきたのか、までが無言のうちに表現されているから。 この愛美の趣味のヘンさ加減は、ゲームのバカ路線の一環と思いがちだが、これも、身を守るための冗談の一種なのか。ある意味、「ヘン」というレッテルを貼られてしまうと、楽だ。それ以上深く突っ込まれなくて済むから。酒の席でひとり飲まずにいるような彼女が、変わった趣味の話題で間が持ったり、救われたりした事はないのだろうか?悪意ではない、助け舟としての「この娘変わってるから〜」というコトバをかけられたことはないのだろうか?
いや、別にこう言うことが、ゲームの隠れ設定資料に書いてあるとか、そう言うことではなくて。優れた筆致は、作者の頭にあること以上を描出することがある、ということなんですけれどね。 しかし、そういうこと自体が彼女の魅力ってわけでもない。 手紙の文面などから、彼女のそんな「人生のちょっとした秘密」みたいなもんを垣間みる。 そういうとき、彼女がどういう人かわかったから嬉しい、ってワケじゃなくて、そんな「秘密」を共有できたことが嬉しいわけですが。 彼女のこれまでの人生の秘密も、笑いのなかに隠されていたからこそ、主人公にとって意味のあるものになったのだ。(恋愛ゲームによくある、「彼女の意外な一面」パターンとも取れるが、愛美の場合は、上記のように、よく見れば普段の言動にもそんな彼女の生き方が現れている点が指摘でき、意外性というのとは異なる。つまり彼女の秘密は、笑いの中に隠しつつも、表現されているのだ。)
そして、私がこのゲームの笑いに対して感じる気持ちも、それと似たようなものであった
人間が「個性」を基準に評価されるというのは、私達の聞かされてきたところである。愛情もまた、相手の個性を愛するものなのだと。
美少女ゲームの世界でも、多様な個性を持った美少女キャラが供給されており、そのパターンは洗練を極めてしまっている。(
参照) だが、個性的であるはずの彼女らは、ユーザーから見た場合、たとえば「ロリ」なら「ロリ」でさえあれば、誰とでも交換がきくのだ。だからこそ大量消費物としてのギャルゲーも成りたつのだが。プレイヤーは品書きの中から女の子を選ぶだけ。しかしこの病理は、ギャルゲーに固有のものではなく、相手個人のオリジナリティを好きになるのだという思考の持つ落とし穴なのである。
だが、人のオリジナリティーは、個人的な属性でのみ決まるのではないだろう。 もしあなたが誰かと十年の時間を一緒に過ごすならば、あなたと十年分の記憶を共有する相手は、この世のなかにそういるもんじゃない。その人はあなたにとってオリジナルな存在になるだろう。 オリジナルな個人どうしが恋愛するのではなく、 恋愛があって初めてオリジナリティを獲得できるという発想もありうるはずなのだ。
そんな、ほんとうはだれでもなんとなく気付いているんだろうが、いざとなると忘れてしまうことを、長堀愛美の存在は体現しているように見えた。
だから、彼女はゲームのなかで、そんなかたちの恋愛、 交換不能な恋愛が存在する可能性を暗示するキャラとなる。 そして、このゲームは、長堀愛美と共有された、時間と、笑いのなかに隠された秘密とを守っていくゲームである、という視点も成り立つ。時に嫉妬ぶかく、わがままとも見えるヒロインも、そのプレイヤー共有されるものゆえに、最後までヒロインとなりうる。
さて、ヒロイン長堀愛美が体現する問題は、ゲームのあらゆるレベルで、さまざまな形で変奏されているもののひとつであろう。
このゲームの選択枝は、プレイすれば分かるとおり、よくあるようなストーリーの分岐を生じさせるためのものではない。しかし登場人物らはプレイヤーの選択した言動を覚えていて、意外な場面で言及されたりする。
そんなときプレイヤーは、私達一人ひとりは比較的ありきたりの人間だったとしても、人と人との間に起こったことは、一回だけのオリジナルなものなのだということを思いだす。
「ゲーム性を重視する」ということは多くの製作者が口にすることだが、それはほとんどの場合、選択の結果の多様性をさしている。多様性といっても所詮は有限のものにすぎないし、完全攻略と称して順に、しらみつぶしにプレイされてしまうことも多いので、結果の多様性=マルチエンディング自体はゲームの本質とはあまり関係ないんだが。
だが「キャプテン・ラヴ」では、ゲーム的な部分(会話選択肢、論撃など)は、人間関係の一回性を表現する手段として、実に効果的に利用される。どれを選んでも大筋の結果が同じだとしても、プレイヤーはいつしか、一つ一つの会話の選択肢にマジメに答えている自分に気づくだろう。それが人間関係のオリジナリティを作っていくのだから。