ほかのジャンルのゲームと比べた場合、パズルとかシミュレーションとかの特徴としては、ゲームの中にプレイヤーの感情移入する対象、「自キャラ」がないってことがある。
シミュレーションゲームの中でも、ストラテジーものとかは古くからあるわけだが、(ここでシミュレーションゲームと言っているのは基本的にその流れをさし、乗り物シムのような一人称視点のものはとりあえず除く。)
こういうゲームでは自分のコマはあっても、自分の分身はない。というか、紙の上のゲームの世界では、まさにコマを自分の分身とみなしたときにRPG(いわゆるTRPG)が生れたわけだが。
さて、ストラテジーはどうしてもマニアックになってしまうが、sim cityとか出てきてから、みんなが「何でもシミュレーションゲームに出来るんだ」と分ってきて、多彩な題材のシミュレーションが出てきた時期があった。これらは多くのプレイヤーを獲得した。
それ以来、この種のゲームには一定の需要があるが、それも感情移入点がないという理由が大きい。一般に小説でも映画でも、登場人物等にどっぷり感情移入するのは観賞の姿勢として幼稚だと看倣されてきた。ゲームにたいする世間の軽蔑も、ゲームが「いかに自キャラとの一体感を描けるか」を公然と追及してきたことによる。
そんな状況を考えれば、パズルのような感情移入を求めないゲームが広い層に受け入れやすいのは当然だろう。パズルゲームと、シミュレーションゲームは、PCにまじめなソフトと並べていれておいても違和感のない、数少ないゲームであったのだ。
だが、正にそのような特色ゆえに、これらのゲームは、一般のゲームにあるような熱狂的思い入れをもってユーザーに迎えられることがなく、メディア上においても地味なあつかいとなっている。
今回の話題であるアートディンクも、しばしばそのようなゲームを作るメーカー認知されてきたってことですが。看板ソフトであるA列車とかがそうだし。
しかし、よくみると同社のゲームは、むしろ無骨でマニアックな感性が随所に感じられ、海外製のスタイリッシュなシミュレーションゲームなんかとはどーも違いがある。
(余談ながら、NEC98の時代に「天下御免」というのあって、役人に賄賂を贈る場面で、菓子折りの底に小判をしこんである所がいちいち図で表示されるあたりにオタク特有の露悪趣味を感じた…)
アートディンクの「アトラス」シリーズは、現在まで新作が出ている人気シリーズだ。(現在、開発者は同社より独立しているようだ)
このゲーム、強いて説明すれば海洋航海&探検シミュレーションとでもいうことになるんだろう。
一言で表現しろといわれたら、この種の説明以外に言いようはない。
だが、このゲームの中にあるのは、海のロマンではない。潮の香りも、船の魅力も、未知の世界への憧れもない。
ゲーム開発者の本意ははかりがたいものだし、ここで当て推量をしても、もし開発者本人が出てきたら引っ込むしかないようなものでもある。わたしはこのゲームの作られた背景について、まったく予備知識もないが、ゲームそのものを見るかぎり、このゲームで根幹となる部分は、海岸線を描出するアルゴリズムではないだろうかと思える。
このゲームでは、探検を進めるにつれて世界の地形が明らかになっていくが、その形は現実の世界地図とは微妙に異なっている。マラッカ海峡を発見するために船団を南下させるが、いつまでも陸が途切れず、「オーストラリアと地続きか?」と思いきや、意外な所で太平洋へのルートがあったりする。ただそれだけのことだが、この「現実の地図との違い」の微妙な加減がこのゲームを面白くしている。
コンピューターに地図の海岸線のような自然な線を描かせるというのは、実は数学的、プログラム的に興味深い問題をはらむ作業であるらしい。ただランダムに線を引かせたのでは、そもそも海岸線に見えないほどでたらめになる。自然界の線は、デタラメなようで、デタラメではないのだ。
再帰的処理の学習としてフラクタル図形を描くプログラムを書いたりする(?)が、これらの応用として不規則なようで規則的な図形をつくる技術もある。
一見デタラメと見えるものが数式に還元されていく作業は、たしかに数学的好奇心(そんなものがあるのか?)を満たすものだろう。「アトラス」の場合、どういう手法で地図を作っているのかは分からないが、プログラム的には一番面白い、創造的な部分なのではないか?
さて、自然界の線のような、味のある不規則な曲線が書けたとして、これをゲームに生かすことはできないだろうか?そう考えたとき、「地図を作っていくゲーム」→「大航海時代の世界の発見をテーマにしたゲーム」と来るのは、自然な流れだろう。このゲームはおそらくそういう順序で発想された。
意外な世界地図の形になんとなく引き付けられ、先が見たくてなんとなくゲームが止められなくなる。
そんな「アトラス」シリーズのゲーム性は、数学的パズルの楽しさに由来するものであり、海のロマンとは直接の関係はないのだった。
このようなゲームの発想は、やはりプログラマーサイドからのものであろう。
アートディンクの中期までの作品には、このようなプログラムレベルでのアイデアから作られたようなものがよくある。スタッフ個人の能力とは別に、会社そのものが社内にプログラマの発想を吸い上げていくような体質をもっていたのだろうか。
ところで、その「アトラス」も、商品としては航海と探検のシミュレーションゲームを名乗らざるを得なかったということは興味深い出来事だ。プログラマ的な数学パズルの楽しさなんてなかなか説明できるもんじゃないし。そう言ってるうちに、売ってる本人たちも、アトラスの本質は探検にあると思い込んじゃったりして。
そして、そうこうしているうちに、ゲーム業界におけるプログラマの没落と、プランナー(ことばによってゲームを説明する人)の興隆とが始まる。
ゲームの表現力が向上し、ゲームの芸術的完成を求める声が高まってきた時代、真っ先に槍玉にあがったのはプログラマだった。「ああいう人たちがシナリオ書いたり絵描いたりしてるからだめなんだ」。そして、ゲームの世界でも、プログラミングは頭脳単純労働と化していった。
ああ、ヲタク産業を最底辺で支える労働者たちよ。
労働者とは指先と肉体を使ってモノを相手にする仕事に従事する者。そして中流階級の仕事とは、コトバを使って人を動かすこと。
だから、プログラマ達が没落したとき、ようやくゲーム業界は、メジャーになることができたのだった。
そう、世界は今日も、文系の人間を中心に回ってる。
本来、理系の諸科学にも表現すべき魂というのはあった。
理系の魂を一言で言うならば、それは
「ウソをつかずにいられたらいいな」という夢だろう、と思う。
数式やプログラム言語のような理論的正確さがすべての人に共有されたら、すべての人が誤解なく理解し合えるだろう…というようなイタいことを考えるやつはさすがに文理の別を問わずいまどきいない。しかし、わたしも数学的に美しい、理論的に厳密なモノとかを見ると、ぞくっとすることもある。子供のころ、ウソをつくことを学ぶ以前、言葉というのはふつう相手には通じないもので、通じないのだから適当なウソで切り抜けるのがお互いのためなのだと言うこと(そして、「嘘のつき方」を学ぶことは、真理の探求とおなじくらい奥の深いものであり、それが文学といわれるものであること)を理解する以前の気持ちを思い出すのかも知れない。
数式はしばしば、そのような日常の複雑さ、複雑ゆえに人と人とが決して完全には理解し得ないことへの悲しみを表現する詩でもある。
まあ、その手の純粋さを大人になっても克服できないと、たしかにロクなことにならない。先日もネット上の技術者系のコミュニティで、醜い論争を見かけた。いつもそうだが、その根本的な原因は結局、「自分より技術のないやつが自分よりでかい口をきいている」という怒りのようだ。その連中は、人間の能力が理論的に説明できるし、まただれでも理論的な説明は理解する義務があると信じきっているようだった。
だがそれでも、そんな理学の原点みたいなもんを、もっとマシな形で表現することもできるはずだ。科学考証にうるさい米国のハードSFがときおり見せるセンチメンタリズムのように。
そして私がかつてアートディンクのゲームに期待していたのも、いつか高い次元でそんな理系のココロを表現してくれるんではないか?ということであった。
アートディンクの作品でプログラム的発想がもっと露骨に表現されているのは、たとえば最近では「カルネージハート」シリーズなどのプログラムもの(そのまんま)だろう。あらかじめ行動をプログラムしておいたユニットを使って、戦闘をするものだ。アートディンクはごく初期からこの手のゲームを作っており、同社の原点ともいえる。
しかし、これらのゲーム、プログラムをいじくるのがゲーム的に楽しいということもあるが、それだけで説明できないところが例によってある。
つまり、「プログラム技術の善し悪しは、その人間の知能の善し悪しと結構関係ある」という幻想を、ウソと知りつつ、戯れに心のどこかで信じてみる。そんな心理的遊びがないと、存分に楽しめないのではないか。
「カルネージハート」を例にとれば、プレイヤーのアイデアがストレートにOKEの強さに影響するというような爽快感は、実はあまりない。敵機を補足したときに武器を一回打つよう指示するか、二回打たせるか、こういうことを判断するに理論的に考えても答えは出ない。ゲームシステムにおけるOKEの動きの速さや癖などに影響される問題なので、とにかくテストを繰り返してみて結果がよい方を取る。その繰り返し。まるで現実のプログラミングのような?地味な作業である。プレイヤーの思考力がゲームプレイにダイナミックに反映されるという点では、ほかにもっと優れたゲームはある。
つまり、この地味さも含めて熱く楽しむためには、プログラミング行為についてのある種のロマンティックな思いいれが必要かもしれない。
アートディンクがPSにいちはやく参入したとき期待されたのは、冒頭で述べたような「知的でポップなシミュレーションゲーム」を通じて、PSのクールなイメージつくりの一部を担うことだったのかも知れない。しかし、それはすでに旧来のアートディンクの本質と齟齬を生じていたのだろう。アートディンクの本質は、一般的な意味でかっこいいとは言い難い、理学の純情にあったのだから。そして今日、同社のゲームはその方向性を模索して大いに混迷している様子が伺えるのだった。